第2話 まがん

 しばらく走って、人気のある所に出た。


 人が居る。

 そう思ったと同時に、自分の足がズキズキと痛いのに気付く。

 足の裏を見るとぱっくりと切れていた。


「おや。こんなところに居るとは珍しいな。怪我をしているのか」


 声の主はすぐ傍に立っていた。

 わたしを見下ろしながら柔和な笑顔を浮かべている。


 スーツ姿のその人はわたしをひょいと持ち上げた。

 驚いて声も出なかった。

 多分、びくびくしながらわたしはその人を見たのだろう。


「怖がらなくても大丈夫」


 彼はそう言っていっそう笑った。


 生まれて初めて笑いかけられた。

 生まれて初めて抱っこされた。

 生まれて初めてぬくもりを感じた。


 だからかだろうか。

 もう家が燃えていることなど、忘却の彼方だった。



※  ※  ※  ※



 男の人の部屋はとんでもなく広くて綺麗で、窓の外は空だった。

 椅子に座らされて彼のもてなしを待っていた。

 目の前にホットミルクを出された。ただし、コップではなくお皿に。


「たんとお飲み。お腹が空いているだろう。それを飲んだら体を綺麗にしよう。君は嫌いかも知れないけれど、今回だけは我慢しておくれ」


 ミルクから立ち上る湯気の向こうの男の人を、いぶかしむように見た。


「飲まないのかい……?」


 わたしがお皿を持ち上げると彼は驚いたように目をぱちくりさせた。


「君は、もしかして人間の……子供かい?」


 言っている意味がよく分からなかった。

 けれども素直に答える。


「はい」

「ああ! それは大変失礼した」


 そう言って彼は皿を下げ、代わりのホットミルクを今度はカップに用意してくれた。


 ミルクをすすりながらわたしは質問をした。


「あの、さっき、にんげんのこどもか、といっていましたけれど、いったいなににみえていたんですか?」

「猫にしか見えなかった。それも捨て猫。少なくとも人間のそれではなかったよ」

「め、わるいんですか?」

「いや、視力はいいんだがね。僕には真実しか映らないんだ」

「しんじつ?」

「そう。この眼は真実のみを捉える、真眼まがん。ある日からそうなった」

「まがん」

「僕はフォルトレスなんだ」

「ほるとれす」

「まあ、いずれ知るようになるよ。知ったからと言って僕を嫌いにならないで欲しいけれどね」

「その、わたしはほんとうはねこなんですか?」

「いや、人間だよ。ただ、人の扱いを受けてこなかったね。足の傷も服の汚れもそのせいなんだろうね」

「あ」


 わたしは足の怪我を指摘されて、ようやく火事のことを思い出した。


 それを話すと彼はさらに突っ込んだことを聞いてきた。どうして一人なのかと。

 なので自分が外に出されていたことや紐に繋がれていたこと、父を呼んだが怒声が返事だったことも話した。


 彼はわたしをぎゅっと抱きしめると頭を撫でてくれた。


「辛かったね」


 わたしは本当に久しぶりにぽろぽろと涙が零れるのを感じた。それでも声を出すことはなかった。


 この人にまで、父のような振る舞いをしてほしくないと、切に思ったからだ。


「その……、かじは、どうしましょう」

「きっと周りの人が気付いて、消防車を呼んでくれているよ。安心すると良い」

「でも、おとうさんは」

「お父さんに生きていて欲しいかい?」

「え!?」


 言われて固まってしまった。


 もちろん生きていて欲しいです。


 そう言えない自分が居ることに気付いた。


「ごめんね。君に意地悪する気はないんだよ。でもね。多分だけれど、君にとってはいない方がいい人間と言うのも世の中にはいるんだよ。手首の紐が切れた。それは多分、そういうことなんだと思うよ」


 彼の言うことはなんだか抽象的で、よくわからないところもあったけれども、感覚の部分で納得できたので、わたしはただ首を縦に振った。


「不安に思うこともあるだろし、家の心配をするのは悪いことではないよ。ただ、僕の目に映る君はまだ子猫だ。せめて君の本当の姿がこの目に映るまでは、ここに居てくれないかい?」


(いいのかな?)

(オトウサンガユルサナイカモ)

悪いことをしているここにいたいとおもう


「ふえあ!?」


 その時恐らく4つほどの思考が、同時進行していた。


「うん?」


 訳が分からなかったが、すぐになんともなくなったので、咄嗟とっさにぶんぶんと首を振った。


「なんでもありません」

「疲れたんだね。きっと。お風呂は一人で入れるかい?」

「はい」

「お利口さん」


 彼は微笑み、私の頭を撫ぜた。

 まるで子猫をいつくしむ様に。

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