第47話 10年目の正直


 「ねぇ弓弦。今夜私の部屋で飲み直さない?」


 熱っぽい上目遣いで甘えるように体を寄せられ、うんざりした。「悪いが明日早いんでね。遠慮させてもらう」と距離を空けると、


 「もー。毎回断ってばっかり! たまには遊んでくれたっていいじゃない。それとも何、やきもち焼きな恋人でもいるの?」


 むくれた顔で腰に両手を当てる女性は、つれない態度に不満を言い募る。アレクサンドルエアラインに入社を控え、早めに欧州へ渡った弓弦は入居したアパルトマンの大家の娘――今まさに色目を遣っている――から熱心なアプローチを受けていた。適当に受け流していればそのうち諦めるかと思ったが、存外しつこく手を焼いている。


 「俺に媚びたところで何のメリットもないぞ。いい加減、放っとけよ」

 「いやよ。あなたは日本で有名な商社の御曹司なんでしょ? 絶対諦めないわ」


 不審そうに眉をひそめた弓弦に「ママから聞いたの」と付け足し、彼女はマティーニを追加する。……あの大家め。住人の個人情報を身内とはいえペラペラ喋りやがってと内心悪態を吐く。


 「何度も言うが俺は今誰とも付き合う気はない。他を当たってくれ」

 「そう結論を急かなくたっていいじゃない。なんなら先に体の相性を確かめてみる?」

 「断る」


 ぴしゃりと言い放てばますます不満げに唇を尖らせる彼女。客観的に見て彼女は美人だし、スタイル抜群だ。その上奔放で情熱的。たいていの男は魅力的に感じるだろう。手放しで誘いに乗るはずだ。それでも弓弦の心は微動だにしない。


 「……どうしても居座る気なら、俺が店を出る。先に帰るから君はどうぞごゆっくり」

 「えっ!? じゃあわたしも一緒に――」

 「迷惑だとはっきり言わなきゃ分からないのか?」


 低い声で鋭い視線を投げると、彼女はビクッと体を震わせた。


 「せ、せめて理由を教えてよ。でなきゃ納得できない。日本人の女じゃなきゃダメなわけ?」

 「国籍は関係ない。そういう問題じゃないんだ」

 「だからなんで――」

 「君は『鈴加』じゃない」


 言い置いて飲食代をテーブルに残し、店を出る。さすがにもう追ってこないだろうと決め込んで寒空の下を歩き出したが、彼女は不屈の精神を持っているらしい。


 「鈴加って誰? あなたの恋人? 日本に残してきたの?」


 俄然好奇心が湧いた彼女は、冷ややかな眼差しを受け流して肩を並べた。本気でつきまとう気か。帰る方向が同じだから追っ払っても仕方がないが、疲労感でため息が漏れる。


 「ねぇねぇ答えてよ。鈴加って誰?」

 「お前の知らない女」


 淡々と告げ、質問責めにしてくる彼女から意識を切り離し、空を見上げた。


 欧州の夏は短い。秋になれば一斉に紅葉が始まり、街路樹の葉が燃えるように色づく。足元の落ち葉を踏みながらもう冬の気配を含んだ風が頬を掠めた。乾燥した空気は喉を痛める。薄手のストールを襟元に巻き、足早に家へ向かった。


 日本を発って以来、鈴加のことは意識して思考の外に追いやっていた。それでもふとした瞬間に浮かぶ、幸せそうな笑顔。幸せかと問いかけて、幸せだと答えた鈴加の声は弾んでいた。きっと例の王子様とうまくいったに違いない。


 正直なところ自分以外の男が鈴加に興味を持つとは思わなかったので、邪な目的で近付いているのではないかと警戒した。けれど千晴がずいぶん信頼を寄せている様子から、相手の男が鈴加を大切にしていることが窺い知れ、ホッした。


 ――何より厄介なのはこれだ、と自嘲する。


 隣で笑顔を向けられる男への嫉妬よりもはるかに――鈴加が幸せでいることへの安堵が先立つ。独りよがりな自己満足だろうが、それだけはどうしたって譲ることができない。そもそも簡単に想うことをやめられる程度ならこれほど未練がましく引きずることはなかっただろう。


 事態が悪化したのはきっとあの瞬間――


 『なんで弓弦くんのSOSに気付けなかったんだろうってずっと後悔してる。自分のことで精いっぱいだったなんて、言い訳したくない。だって弓弦くんはどんな時もあたしのピンチに気付いて駆け付けてくれた。だから絶対、見落としちゃいけなかったのに』


 過労でふらついた夜のことを思い出し、胸が軋んだ。過密なスケジュールをこなすため、完璧に自己管理しているつもりだった。決して他人に隙を見せてはならない、幼い頃からそう叩き込まれた自分が弱味を晒すことは絶対にないと思っていたのに、綻びが生じたのは、相手が鈴加だったからだろうか。


 『あたし次は絶対見落とさないから! ちゃんと弓弦くんのこと見てるから。だから――』


 今にも泣きそうな顔で、必死で言い募る鈴加に。俺の背中に回された小さな手の震えに。魂ごと全部引っ張られそうな気がして、『やめろ』と心の中で叫び、続きを遮った。悪役を徹底するならそのまま突き放せば良かった――心配する女を突き放すひどい男だと軽蔑され――もう目も合わせたくないほど嫌われてしまえばいい。けれど実行に移せなかった。傷付き、辛そうに目を伏せた鈴加が、それでも俺の側を離れなかったから。身勝手な感情で傷付けてしまったことを深く悔い、「疲れていた」と咄嗟に取り繕った。それなのに――


 『こういうの、押し付けがましいって思うけど、あたしは……弓弦くんのこと友達だと思ってるから。放っておけないよ。まだまだ頼りないし、弓弦くんの助けになれるようなこと、いまはたくさんはないかもしれない。それでも、疲れたときに休めるように、SOSに気付けるように――今度はあたしが弓弦くんを助けに行けるようにしたいんだ』


 ふわりと、自然に綻んだ笑顔を向けられ呼吸を忘れた。俺を懸命に支えた華奢な体。不意に与えられた温もりと、鈴加自身の甘い香りに目眩がした。そのまま抱き締めたい衝動をどう抑えたのかもう思い出せない。 


 『急にいなくなったりしないでね』


 最後に電話した時、何かを察した鈴加の不安げな声。それが今も耳に残っていて、見えない糸のように絡みつく。鈴加は、二度も約束を破ったことを恨んでいるだろうか。それとも時間の経過と共に忘れて、目の前にある幸せに夢中だろうか。


 「弓弦。弓弦ってば!」


 突然手を掴まれ、ハッとした。ずいぶん長い間物思いに耽っていたらしい。


 「なんだよ?」

 「もうっ、ボーっとしちゃって。見てよ、アパルトマンの前に誰かいるの。酔っ払いかしら? 座り込んでるわ」


 できるだけ面倒なことには関わりたくない。弓弦は酔っ払いらしき女性を避けて通り過ぎようとした。が。


 ドッと嫌な音を立てて高鳴る心臓。幽霊に出逢ったかのような表情でその人物を見下ろした。スーツケースを横に倒し、椅子がわりに腰かけている小柄な女性—―体育座りの体勢で顔を伏せてはいるが、その見覚えのありすぎるシルエットに緊張が走る。ありえないと自分の冷静な部分が可能性を打ち消しながら、もしかしたらという期待に胸が震えた。


 「鈴加……?」


 ぽつりと落ちた呟きに、うとうとしていた女性の肩が反応する。ゆっくり上体を起こした女性の顔を見た瞬間、弓弦は鋭く息を呑んだ。


 「高橋!? お前、こんなところで何してんだ!」

 「ふぁ…、弓弦くん? おかえりなさい」


 まだボケッとしている鈴加に舌打ちし、腕を掴んで立ち上がらせる。比較的人通りのある場所とはいえ、アパートの前で眠りこけるなど不用心極まりない。もし自分ではない他の誰かが親切を装って声をかけていたら――無理やり連れ去られ、酷い目に遭わされていたら――? 想像しただけで神経が焼き切れそうだ。


 「おかえり、じゃねーよ。ここは日本とは違うんだぞ! 少しは警戒しろ!」

 「ご、ごめんなさいっ」


 怒鳴られ完全に目覚めた鈴加は、慌てて謝罪した。しゅんと項垂れ、従順に見上げてくる鈴加の表情を見れば、反省の色が伝わってきてぐっと言葉に詰まる。説教し足りない弓弦は発散し損ねた怒りをどうにか収めようと努めたが、厳しい顔つきは変わらなかった。


 (もし鈴加に何かあったら――こいつが二度と笑えなくなったら……)


 ぞくりと背筋が寒くなり、足元をすくわれたような恐怖で拳が震えた。


 「頼むから……」


 (俺の目の届かない場所で、危険に巻き込まれるな)


 本音を寸手のところで飲み込み、弓弦は深呼吸した。クールな弓弦が感情的に取り乱したことに面食らった大家の娘は、ふと冷静になって鈴加に視線を移す。――さっき話していた恋人は彼女? 瞬時に外見を品定めし、勝ち誇った彼女はとたんに余裕のある態度に変わる。弓弦の肩に手を乗せ、意味深に耳元で囁いた。


 「お取り込み中みたいだから先に戻るわ。またね」


 普段の弓弦なら簡単に避けられたであろう頬へのキスを、この時は真っ向に受けてしまった。目の前で大きく見開かれた鈴加の瞳が揺れ、苛立ちが募る。なぜ恋人でもない女に対して罪悪感を覚えてしまうのか。


 「あの……綺麗なひとだね。か、彼女……?」

 「何しに来た?」


 質問には答えず、冷ややかに訊いた。大家の娘との関係を勘違いしているならいっそその方が都合がいい。


 「弓弦くんに会いに来たの」

 「は……?」


 予想外の返答に間抜けな声が漏れ、動揺した。落ち着け、勘違いするなと理性が叱る。鈴加がわざわざ欧州まで自分に会いに来る理由が分からない。戸惑う弓弦はどうにか主導権を取り戻そうと、心にもないことを告げた。


 「どういうつもりか知らんが、遠路はるばるご苦労だったな。自慢の王子様はどうした? 彼氏を置いて他の男に会いに来るなんて、ちょっと見ない間に薄情になったな」


 思惑どおり、鈴加が傷付いたのが手に取るように分かった。良心が痛んで、吐き気がした。せっかく何も言わずに姿を消したというのに、これでは台無しだ。


 「ここへは1人で来たの。住所は榊さんに教えてもらった」

 「!? なんでお前が榊を知ってんだ」

 「あたしがOOGAMI本社に行ったから。そこで偶然会って、色々助けてくれて……」


 苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめる弓弦に、鈴加は勇気が萎んだ。しかし連絡が取れない状態になっていたとはいえ、事前の許可なく勝手に会いに来たのだから迷惑がられるのは当然だ。


 「――で? こそこそ嗅ぎ回ってまで会いに来て、何の用だ」


 手短に済ませろと釘を刺され、立ち竦む。これから伝えようとしていることは、今の弓弦にとっては聞くに足りないどうでもいいことかもしれない。外国語で何を話していたか分からなかったけれど、さっきの綺麗な女性が恋人なら、到底女としての勝ち目はない。だけど、今ここで逃げたら一生後悔する。鈴加はめいっぱい勇気を奮い立たせた。


 「弓弦くんの言うとおりだよ。あたしは薄情で、ひどい女なの。あんなに優しくしてくれた王子様……東くんの告白を受け入れなかった」


 声が震える。怖くて、弓弦を直視できない。


 「お前何言って……」

 「あたしが振ったの。あんな素敵な人、世界中探し回ったってどこにもいない。だけどダメだった。どうしても忘れられない人がいたから」


 弓弦が小さく息を呑む。途中で遮られれば最後まで言えないかもしれない。気持ちが挫ける前にと続きを言い募った。


 「その人は強引で傲慢でわがままで嘘つきで、だけど本当は誰よりも懐が深くて優しい人。見返りもない誰かのために自分の全てをかけてしまえるの。ずるいよね? 涼しい顔して何も言わずにいなくなって、痕跡に気づいたあたしがどんな気持ちで追いかけてきたかなんて、綺麗な人と一緒に帰ってきた姿を見て何を思ったかなんてちっとも分からないでしょう? だから、直接言いに来たの」


 ――もう後には引けない!


 崖から飛び降りるような気持ちで、鈴加は顔を上げた。


 「弓弦くんが好き」


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