第46話 想いをひとつに
鈴加が弓弦に会いに行く計画を立て始めたのは、東との一件が収まった後だった。
東への返事を保留にしたまま弓弦に会いに行くのは不誠実だからというのもあるが、鈴加自身、気持ちの整理をつけるのに時間が必要だった。また、金銭的な問題もある。
大学生になって未だに親からのお小遣いを頼りにしてきたことは恥ずかしい限りだが(そのせいで律にパラサイトシングル予備軍という痛烈な批判を受けた)、さすがに欧州までの旅費を出して欲しいというのは気が引けて、実入りのいい単発バイトを掛け持ちすることにした。
大学の単位はほぼ取得済みで、就活も終わった。時間は十分に取れる。とはいえ引きこもり生活が長くまともに働いたことがなかったため、連日のバイトは精神的にも肉体的にもめちゃくちゃ辛かった。疲れた時は欧州旅行のために購入したガイドブックを読んでモチベーションを保った。
そうして二ヶ月が過ぎた頃、ある程度資金の見通しが立ち、榊に連絡した。
榊は約束通り弓弦の住所を教えてくれただけでなく、渡航に際しての一般的な留意点や、旅先で役立つ情報を送ってくれた。特にありがたかったのは日本人女性がひとりでも安心して宿泊できる手頃なホテルリストで、鈴加はその中から空港送迎サービスのある所を選んだ。航空券は榊経由で破格の優待価格で手配してもらい、いよいよ出発が決まった夜は興奮してなかなか寝付けなかった。
そして出発当日。
「忘れ物はない? パスポート、財布、携帯持った? あと常備薬」
「大丈夫だよ。ありがと」
やや心配そうな春子に見守られながら、玄関で靴をはく。傍らのスーツケースは春子が若い頃に使っていたものだ。使用感は否めないが、父が新調した出張用のものはあまりに大きすぎたため、諦めた。
「何かあったらすぐに連絡するのよ?」
「うん。無事にホテルに到着したらメールするね」
初の海外。しかも非英語圏(英語もろくに話せないが)――言葉の通じない国をひとりで旅するのは鈴加にとってかなりハードルが高い。それでも弓弦に会うという目的を果たすため、勇気を振り絞ったのだ。旅行の目的について鈴加は「ちょっと早い卒業旅行」だと濁したが、春子は行先を聞いた瞬間に弓弦のため行動を起こしたことを見抜き、内心感慨に耽っていた。
あの、泣き虫だった鈴加が。いつも弓弦に庇われて、手を引かれ、背中に隠れていた鈴加が今は――……。
「……大きくなったわね」
「ん?」
「なんでもないわ。いってらっしゃい。気をつけてね」
鈴加は「旅の安全を願ってる」と両手を広げた春子のハグに応じ、背中に手を回す。その時、二階から降りてきた人物に驚いて目を丸くした。
「律っちゃん! おはよう。この時間家にいるなんて珍しいね。朝練は?」
「今日はパス。それより姉貴、パスポート持ったか? いざ空港で出国できないとかダサすぎだからな。泣いて電話してきても絶対届けてやんねーから」
「はぅッ!」
忌々しそうに見下ろされ、鈴加は後ずさった。他方、春子は律の視線を捉え、「じゃあ戸締まりお願いね」と微笑んで居間へ戻る。気を利かせて姉弟水いらずの時間を作ってくれたのだが、鈍感な鈴加はそれに気付かない。律との間に妙な空気が流れ、気まずくなった鈴加はサッとスーツケースを引き寄せた。
「じゃ、じゃあいってきまーす!」
回れ右した途端、
「ちょい待ち」
「へぶッ!?」
ぐいっと首根っこを掴まれ、勢いのまま引き戻される。見上げれば、ブスっとした表情で不機嫌オーラMAXで睨む律が。
「律っちゃん? あの、あたし飛行機の時間が」
「律っちゃんゆーな。俺からお前に言っとくことがある」
「お土産リストならメールして」
「ちっげぇーよ!!」
「ぶへぇ!」
容赦なく脳天にげんこつを食らった鈴加は視界に星が散った。い、痛い! 朝から弟にどつかれるなんて悲しすぎる!
「まだ目が覚めてないみてーだな? 俺が覚ましてやろーか?」
「ひッ! 起きてますバッチリ目開いてます~!」
ゴゴゴゴと背景にドス黒い炎がゆらめいた気がして、鈴加は逃れようとわたわた手足をばたつかせた。狭い玄関で取っ組み合いになれば確実に鈴加の分が悪い。そこで律の無防備な脇腹をくすぐり、「うぉッ!?」と驚いて手を放した隙を突いて逃走を図った。が。
バン!
玄関を足蹴にされて硬直する。退路は断たれ、扉を背に追い詰められた。間近に迫る端正な顔。同じ遺伝子なのになんで律はイケメンなんだろう。不満に思ってハッと我に返る。
「お、弟に壁ドンされるのはちょっと……ていうか足どかしてもらわないと外に出れないんデスケド」
「黙れ穀潰し!!」
「ぎゃぉぉ!」
Critical Hit!! 豆腐メンタルに風穴を開けられ、涙目になる。容赦なく律の手が額に向かって伸び、デコピンされると直感した鈴加は身構え目を閉じた。だけど――
「……ッ?」
意外なことに、痛みは襲ってこなかった。その代わり――ぽす、と左肩にかかる重み。
律が自分の肩に顔を埋めていると気付き、ド肝を抜かれた。鈴加が引きこもり兼二次元オタクになって以来、バカとかキモイとかウザいとか散々な言われようで、常にぞんざいに扱われてきたのだ。こんな風に甘えてくるのは小学生以来。
『お姉ちゃん、僕もまた弓弦兄ちゃんたちと遊びたい』
『うん、いいよ! 律っちゃんも一緒に遊ぼう』
『わーい! 千晴姉ちゃんも来る?』
『もちろん! へへ、律はほんとに弓弦くんと千晴が好きだね』
『うんっ。でもお姉ちゃんが一番大好き!』
ぎゅーっと抱きついてきた幼い頃の律は、嬉しそうに鈴加にすり寄り、肩に顔を埋めて甘えてきた。もちろん遠い昔の話で――本人いわく『抹消したい黒歴史ワースト3』にランクインしているらしいが。
「……どうしたの?」
鈴加は棒立ちになったまま、自分よりずっと背が高くなった律の頭を、躊躇いがちに撫でた。嫌がってすぐに払いのけられるかと思ったが、律は不服げな空気を出しつつ、大人しくしている。
「弓弦兄ちゃんのこと、ちゃんと連れ戻せよな」
「へ」
「『へ』じゃねーよ。弓弦兄ちゃんに会いに行くんだろ?」
「!! な、なんでそれを」
「バレバレなんだよ、バーカ」
フンと鼻を鳴らして顔を上げ、
「弓弦兄ちゃんにも都合があるだろうからすぐには無理だろーけど。『いつか』でいいから絶対実現させろ」
(……めちゃめちゃ悔しいけど、弓弦兄ちゃんを動かすことができるのは姉貴だけだから)
律は鈴加に気取られないよう、小さく呻いた。鈴加は戸惑いながら、
「そんなに弓弦くんと一緒がいいの?」
「ったりめーだろ。俺はな、大事な奴らが側にいねーと落ちつかねーんだよ。だから……」
「……!? 律っちゃん……!」
ありえない事が起きて、雷に打たれたような衝撃が走る。律が最敬礼の形で頭を下げたのだ。
「頼む。取り返しがつかなくなる前に――手が届く場所にいるうちに、想いを伝えてきてほしい」
ゆっくり上体を起こした律の真摯な眼差しに胸を打たれる。プライドの高い律が鈴加にお願いをするなんて、天地がひっくり返ってもないことだった。それほど律にとって弓弦と過ごした日々は――彼の存在は大切で、かけがえのないものなのだろう。
「うん。ちゃんと伝えてくる。弓弦くんの気持ちも、聞く」
「……おぅ」
照れ臭くなったのか、サッと視線を逸らした律の耳が赤い。鈴加は今度こそ玄関を開け、スーツケースを手に一歩踏み出したところで振り向いた。
「ねぇ律っちゃん。ひとつ聞いてもいい?」
「なんだよ」
「さっき言った『大事な人達』の中にあたしも入ってる?」
聞くだけ無駄だと思ったが、どうしても口にせずにいられなかった。こんなに素直な律なんて、この先一生会えないかもしれないから。
「さぁな」
「ぶー……」
「拗ねてんじゃねーよ。キモ」
あーあ、やっぱこれ以上は無理か。残念。しゅんと項垂れて肩を落とし、扉を閉めるその瞬間、
「少しくらい自惚れてろ」
背中越しに届いた声は、ひどく不本意そうでありながら――鈴加をすみずみまで、幸せにした。
***
同日同時刻@千晴家――
「あの子寝坊してないかしら。やっぱりモーニングコールするべきだったか……」
「大丈夫だよ。相変わらず過保護だな」
呆れ混じりにふっと笑う島田がキッチンから現れた。千晴はパジャマ姿のままベッドの上に寝転がり、スマホ片手に頬を膨らませる。
「心配して当然よ。だってすごく鈍くさいんだもの。昔から遠足とか運動会とか受験とか、そりゃもうほんっとーに絶妙なタイミングでトラブル起こすんだから」
「それでもちゃんと自分で切り抜けてきたんだろ? 高橋さんはしっかりしてる」
「むっ。玲二はほんとに鈴加贔屓ね?」
「嬉しいくせに」
「高橋さん大好きでしょ?」そんな軽口を叩きながらテーブルの上に置かれたマグカップのひとつを手繰り寄せ、千晴はニヤッと笑った。
「あら。もうこの手には引っかからないのね」
「何年一緒にいると思ってるのさ。妬いてるフリして反応を楽しむなんて、悪趣味だよ」
ため息をつき、床にあぐらをかいて座る。島田はフーッとコーヒーを吹き冷まし、口に含んだ。
「頑張ったよね。千晴も」
「え?」
「プロジェクトNのことだよ。ま、色々小細工した挙句、結局は敵に花を持たせることになっちゃったわけだけど。だから僕は反対したろ? 他人の恋愛沙汰に首突っ込むなって」
「うるさいわね。アイツにだけは負けたくなかったの! 10年来の因縁よ? 多少ムキになってもしょーがないでしょ?」
「そんなにムカつく男なわけ?」
「ムカつくわよ! あんたの次に」
フン! っと不機嫌に顔を背けた千晴だったが、島田は気にした様子もなく柔らかい視線を向けた。
「なに笑ってんの?」
「いえ別に。ムカつかれて光栄ですよ?」
腰を上げた島田が近付き、ベッドの端に座る。ギシッとマットが軋んだ。手を伸ばした島田が千晴の艶やかな長い髪に触れる。
「千晴といると飽きない」
「バカにしてる?」
「全然。思い通りになってくれないところが魅力的って意味だよ」
「なによそれ……。可愛げのない女で悪かったわね」
起き上がろうとして肩を押された。そのまま上に覆い被さられる体勢になり、千晴は天井を仰いだ。
「朝だけど」
「知ってる。それが何?」
「……っ」
軽く睨み付けるも効果なし。額に唇が落ちて、心臓が跳ねる。島田が泊まりに来たのは初めてじゃない。むしろ家のどこに何があるのか把握しているくらい休日は入り浸っているのだが、未だに触れられると心臓に悪いのが悔しい。
「バイトなんでしょ。遅れるわよ?」
「午後からだし平気。それより昨晩『鈴加が心配すぎて眠れない』って甘えてきた千晴すごい可愛いかっ…」
「うわぁぁぁ!!」
ゲシッ!
羞恥が限界に達してみぞおちに一発グーパンをぶち込む。「ゴフ!!」後ろに引っくり返った島田に思い切り枕を投げ付け、千晴は真っ赤になってゼェゼェ息を切らした。
「朝ごはん抜き!」
「犬!?」
ショックを受ける島田に憤然と背を向け、千晴はカーテンを開けた。空は澄み渡った秋晴れで、鈴加の出発を後押しするような美しいコバルトブルーだった。
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