第45話 赤い糸のつながる先へ


 あの瞬間、どれほど嬉しかったか東には分からないだろう。誰にも言えなかった心の内を素直に吐露できたのも、彼の纏う誠実で温かい空気が許してくれたからだ。


 「『周りに合わせようとするのはおかしいことじゃないよ。僕が見た限り、君はちょっと自分に自信がないだけで魅力的な普通の女の子だと思う』って励ましてくれたし」

 「……よく覚えてるね」

 「覚えてるよ。東くんがくれた言葉は全部――」


 キラキラと、宝石みたいに胸の中で輝いている。見えない宝物を包み込むように、鈴加はそっと自分の胸に手を当てた。


 「図書館事件の時も、一番に駆け付けてくれたね。『僕じゃ力になれないかな?』なんて男の子に言われるの初めてだったから、あたしビックリしちゃって。でも、すごく心強かった。それ以上に、東くんが犯人に危害を加えられたらどうしようって怖かったけど……」

 「高橋さん……」


 『君の許しが得られないなら、僕は僕の考えで行動させてもらう』


 危険を冒しても鈴加の護衛を引き受けたいと申し出た東は、凛として頼もしかった。首を縦に振らない鈴加を懸命に説得してくれた。


 『言ったよね。春から同じ電車で君を見かけたって。君は他人に対して親切に振舞っていた。それも一度や二度じゃない。相手に感謝されなくたって、変わらなかった。その度に思ったんだ。あんな子と――いや、君と友達になりたいって。だから不謹慎だけど、あの時も、君のピンチを救う役目を他の誰かに譲る気は毛頭なかった』

 『……!』

 『これは全部、僕のわがままだ。もし君の護衛中に何かあったとしたら、それこそ僕の自己責任だ。君が後ろめたく感じる必要なんてどこにもない。だから頼む――君を守らせてほしい』


 「それから……っ」


 思い出を辿る内に視界が涙でぼやけ、スンっと鼻をすする。何も言わずに聞いてくれる東の優しさに胸を打たれながら、鈴加は続けた。


 「彩葉さんに叩かれて……ほっぺた赤くして教室へ行った時、東くんは心配してくれて……」


 『――この頬はどうした?』

 『え、あ……』

 『何かあったのか? 僕には話せないこと? 目の前にいるのに、君の力になれない。それが何より悔しい。君を守りたいのに――』


 鈴加は今日だけは絶対に泣かないと決めていた。だから涙が零れないよう必死に堪えた。自分の勝手な都合で東の手を取らないのだから、泣くのはずるいと思ったのだ。だけど目頭が熱くなる。どうしようもなく、胸が締め付けられて息が苦しい。


 どうしてだろう。伝えたいことがたくさんあるのに――


 言葉に、できない。言葉に、ならない。


 白いキャンパスを埋め尽くすように、記憶の欠片たちが鮮やかに蘇ってくる。


 『輝ける未来の中に素晴らしい君がいたとしても、僕は今、目の前で必死に変わろうともがいている君の側にいたい』

 『周りがどう思おうと関係ない。僕にとっては、君の安全が最優先だ』

 『夢じゃないよ。僕はここにいる』


 『君が助けを必要とする時、いつもその場にいるとは限らない。だけど君が望むなら、どこにいても、必ず駆け付けると誓う。どんなに遠く離れてたって、飛んでいく』

 『君はどんなに辛いことがあっても、現実から目を背けないんだな。そのことを、僕はとても眩しく思う』


 『謙遜するのは君の長所だが、もう少し自己評価を高くしてもいいんじゃないか。少なくとも僕には、出逢った時からずっと――魅力的な女の子だ』

 『大丈夫だ。たとえどんな逆風に見舞われようとも、決して折れない帆を胸に張る限り、光を見失うことはない。ほんの少しずつでも前進し続けることが、確かな未来を形作っていく』


 『僕は君の側にいたい。大学を卒業してからも……』

 『君のことが好きなんだ』


 「それから……っ」


 嗚咽を押し殺す鈴加の姿が痛ましくて、東は堪えきれずに遮る。


 「高橋さん。もういい」

 「ダメだよ、これじゃ全然足りない……!」


 鈴加はふるふる首を横に振り、瞳に涙をいっぱい溜めながらもまっすぐ東を見つめる。ついに限界に達して零れ落ちた涙が、小刻みに震える肩が、どうしようもなく愛おしかった。衝動を抑えきれず立ち上がり、腕を伸ばして鈴加の体を包み込む。東は我を忘れて強く抱きしめた。


 「……っ、東く」

 「もういい、と言っただろう? 君の気持ちは十分伝わった」


 だからそんなに泣かないで――。耳元で囁く声がひどく優しくて、抱きしめる腕が温かくて、溜め込んでいた想いがワッと噴き出した。


 「ごめん。ごめんね東くん……っ」


 一度堰を切ってしまえば、涙はとめどなく溢れてくる。東の肩口に顔を埋める鈴加が控えめに上着を掴んできて、東は切なさと愛しさで胸が張り裂けそうだった。


 好きな人に好きな人がいる。ただ、それだけ。ありふれた現実。だけど実際に自分が当事者になってみれば、これほど辛いことはなかった。


 鈴加が自分以外の誰かと未来を歩く。その姿を想像するだけで打ちのめされるのに、幼馴染の『彼』は鈴加の側にいて、どれほど自分の想いを抑えてきたのだろう。察するに余りあるが、恋敵とはいえ同じ男として思うところがあった。


 (小学生以来となれば10年か……敵わないはずだ)


 ふっと密かに自嘲した東は、手放しに鈴加の背中を押せるほど気丈になれなかった。しかし、だからこそ――鈴加の隣に誰がいても変わらず第一に彼女の幸せを願う――弓弦の想いの深さが身に染みるので皮肉なものだ。


 「君のことが一番好きなのは、僕だと思ってた。悔しいけど、一人だけ、敵わなかったみたいだ」


 そっと鈴加から体を離した東は、普段どおりの、穏やかな表情を浮かべていた。だけどそれは鈴加を気遣っての精一杯の思いやりだと、鈴加には痛いほど理解できた。


 「東くん……」 

 「そんな顔をしないで。あ、大学卒業しても会いたいって言ったことは撤回しないよ? もちろん君が嫌でなければだけど。これからも友達として接してくれたら嬉しい」

 「……! いいの? あたし、まだ東くんの友達でいても」

 「当たり前じゃないか。君に感謝することがあっても、恨むようなことは一切ないよ。ま、僕自身のタイミングが悪かったのは認めるけどね」


 もう少し告白が早ければ鈴加の答えは違っていただろう。たとえ弓弦のことを後で知ったとしても、東の手を離すことはなかったかもしれない。だけど同じことだ、と東は自分に言い聞かせた。


 (高橋さんの心に『彼』がいる限り、僕は満足できないだろうから)


 「ありがとう高橋さん。君のおかげで、僕は大切なことに気付けた」

 「……?」

 「人を好きになるっていうのは、素敵なことだね」


 ――たとえその恋が叶わなかったとしても。


 心の中で付け足し、東はいつの日か告げられた姉の言葉を思い出す。


 『日本では、『赤い糸』って言葉があるんですって。運命の人と繋がってるって話よ。本当にそうだったら素敵ね。でも、私思うの。いくら縁があっても、その縁は何もしないでいたら結ばれないんじゃないかって。だからね、喧嘩したり、泣いたり怒ったりしていいのよ。作った自分を愛されたって長続きしないもの。嫌われるのが怖くても、素直な気持ちで向き合いなさい。それで振られても、私はあなたを笑わない』


 (私はあなたを笑わない、か――……)


 少しだけ胸の痛みが和らいだ気がして、内心姉に感謝する。そして――

 鈴加の濡れた頬に伝う一筋の涙を慈しむように、拭い去った。

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