第40話 突然の別れ


 OOGAMI本社前でタクシーを降りた鈴加は、高層ビルを前にごくりと生唾を飲んだ。OOGAMIグループが日本三大商社ということは周知の事実だが、その総本山ともなれば鈴加が受けた小さな民間企業とは桁外れに規模が違う。


 (弓弦くん、出ない……)


 思い切って電話してみたが、繋がらない。しばらく会社の前をうろうろする羽目になり、そのうち警備員に不審そうな眼差しを向けられたので、えいやっ! と意を決して中に踏み込んだ。


 さすがに22時過ぎとあって人はまばら。受付嬢も退社したらしく、受付ロビーの照明は最低限に抑えられている。上の階に昇るエレベーターへ通じる道は、改札のようなもので遮られていた。社員がIDカードをかざすと自動で開閉する仕組みのようだ。が、受付嬢がいたとしてもアポイントメントがなければこの先には進めなかっただろう。


 (どのみち足止めか……)


 これ以上は意味がないと察して改札の側を離れた。見上げると天井は高く、ガラス張りの広々したロビーには待合用の着席スペースが設けられている。もしまだ弓弦が残っているとしたら、帰りにはここを通るはず。少しだけ待たせてもらおうか悩んでいた時、どこからともなく声がした。


 ロビーに響く靴音。ちょうどエレベーターから降り、改札を通ってくる男性がいた。通話を始めた彼は堂々とした雰囲気で、完璧にスーツを着こなし、歩くだけで様になっている。


 「例の委託調査は順調です。後は成果物の社内審査を経て、最終版の製本を依頼するだけの状態で……はい。承知しています。弓弦様もどうかご無理をされませんよう」


 ――弓弦様。


 名前に反応し、すれ違った瞬間に榊の腕を掴む。榊が面食らったように目を見開いたのは一瞬で、すぐさま平静を取り戻し、鈴加に向き直った。


 「私に何か?」


 尋ねられて我に返る。見知らぬ相手に一体何をしてるのだろう。慌てて手を離し、頭を下げて謝罪した。


 「す、すみません! 知り合いの名前が聞こえたのでつい」


 他に言い訳も思いつかず、正直に答えた。すると相手は表情を変えないまま「弊社の社員にご用でしょうか」と冷静な返事。


 「社員じゃなく、家の手伝いをしてると聞いたのですが……大神弓弦さんに会いに来たんです」

 「失礼ですが、貴女は?」

 「私は弓弦さんの友人で、高橋といいます。会社に押しかけるなんて迷惑だと思ったんですけど、どうしても会いたくて」


 『高橋』と告げた後、ややあって彼は合点がいったように口を開いた。


 「もしや貴女は高橋鈴加さんですか? 弓弦様の幼なじみの」

 「! 私を知ってるんですか?」

 「話に聞いたことがあります。そうですか、貴女が……」


 じっと食い入るように見つめられ、鈴加はドギマギした。榊は不躾だったと反省し、視線を和らげる。


 「これは失礼を。申し遅れましたが、私は弓弦様の秘書をしておりました榊といいます。本日はどのようなご用件か存じませんが、残念ながら弓弦様にはお会いできませんよ」

 「やっぱり約束がないとダメですよね」

 「そうではありません。弓弦様はもう弊社に――日本にはいらっしゃらないのです」


 ――弓弦がいない。


 その一言が、想像をはるかに超えて鈴加を打ちのめした。頭をガツンと殴られたような錯覚を覚え、足元が覚束なくなる。


 「大丈夫ですか?」


 咄嗟に腕を掴んで支えた榊は、鈴加の表情に息を呑む。血の気を失い、完全に青ざめていた。


 「……。よろしければ少し休んでいかれますか?」

 「え……?」

 「私はちょうど退社するところだったのですよ。ご希望であれば、現在は空き部屋になっている弓弦様の執務室へご案内しましょう」


 呆然とする鈴加に、榊は気遣うような微笑を向けた。





 榊の計らいで、鈴加は客人用のIDを借りて社内へ通された。外の景色に面したガラス張りのエレベーターは高層階に上がるまでの間、宝石箱のようにキラキラした夜景を一望できる。次第に小さくなっていく周囲の建物や車や街灯の光をぼんやり眺めながら、鈴加の胸は重く沈んでいた。


 「こちらへどうぞ」


 榊は鈴加をエスコートし、入った部屋に灯りをつける。デスクと椅子、書棚など最低限の備品があるだけで、現在は使用されている気配がなかった。「しばらくお待ち下さい」――座るよう促され、鈴加は応接用のソファに腰をおろす。


 「数日前まで書類の山だったんですけどね。弓弦様ご自身が綺麗に片付けました」


 数分後に戻った榊はトレイにのせたコーヒーカップを差し出した。鈴加は会釈し、そっと受け取る。ふぅっと息を吹きかけると、香ばしい匂いが鼻先をくすぐり、少しだけ気分が和らいだ。冷静になって執務室を見回す。弓弦が普段仕事をしていたオフィスだと思うと、初めて来た場所なのに少しだけ親近感が湧いた。


 「弓弦くんはいつ日本を発ったんですか?」


 熱いコーヒーを一口含んで、訊いた。


 「つい先日ですよ。空港まで私が送迎しました。途中、貴女の家に寄るとおっしゃったので、てっきり貴女に挨拶をするものだと思っていましたが、違ったようですね。玄関先で少年と話しているのを見ました。確か、『リツ』と呼ばれていた記憶があります」

 「!! それ、あたしの弟です!」

 「そうですか。ですがその様子だと、弓弦様が訪ねられたことについて貴女はご存じなかったようですね」


 頷き、膝の上で拳を握り締めた。思い返せばここ数日は律の機嫌が非常に悪く、鈴加への当たりがきつかった。それと何か関係があるのだろうか? 胸がもやもやする。何も言わずに遠くへ行かないでとお願いした時の返事から察するに、弓弦ははじめから黙って去る心積もりだったのかもしれない。


 榊は立ったまま軽く壁に背をつけて、腕組みした。


 「弓弦様は当初、大学卒業まで家業を手伝う予定だったんですよ。ですからこんなに早く日本を発たれたことは、想定外でした」


 弓弦が身の振り方を決める時、いちいち断ってくる義理がないのは確かだが、こうして再び取り残されたような気持ちになるのは身勝手だろうか。


 俯き、無言で湯気の立ち昇るコーヒーを見つめる鈴加に、榊はぽつりと呟く。


 「実は、私は貴女にお会いしてみたいと思っていたのです。ですから本日弊社にお見えになった時は本当に驚きました。これも何かのご縁でしょうね」


 思いがけない言葉を受け、鈴加は弾けるように顔を上げた。


 「弓弦くんは私のこと、榊さんによく話していたんですか?」

 「いえ、一度だけ。しかし、これまで見たこともないほど優しいお顔をされていたので驚いて、記憶に残っています。彼にあんな表情をさせられる相手を、私は貴女以外に知りません」

 「そんな……。私、ずっと弓弦くんに嫌われてると思ってました。だって彼はいつも――」

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