第38話 secret goodbye


 『N様へ


  引退すると知ってとても残念ですが、今は、ただ感謝の気持ちでいっぱいです。あたし、自分はずっと脇役だと思って卑屈な気持ちで生きてきました。だけどN様を通じて、N様が脇役でも主役に負けないくらい――ううん、それ以上に輝いてるのを目の当たりにして、自分でも頑張れば主役になれるんじゃないかって希望を持てたんです。だから『特別何もしてない』じゃなく、たくさん、たくさんもらってます。プロジェクトNの件ではお世話になりありがとうございました。乙女ゲームは大好きなのでなかなか卒業できそうにありませんが、頑張ります』


 最後に何を伝えるか――浮かぶ言葉はやっぱり「ありがとう」しかなくて。鈴加は大切そうにスマホを握り締め、人知れずありがとうと呟いた。返信後はしばらく、えもいえない喪失感で頭がぼうっとした。その時、


 (わわっ電話? 知らない番号だ……)


 少し躊躇った後、応答する。いつもなら無視する未登録の番号。だけどこの時は、どうしてか自然と応えていた。虫のしらせだったかもしれない。


 「もしもし?」

 『……高橋さん?』


 ドクン、と心臓が跳ねあがる。聞き覚えのある声に、まさかという気持ちと、もしかしたらという期待が入り交ざって鳥肌が立つ。数えきれないほど焦がれたこの声は――


 「和馬――じゃなくて! N様ですか……!?」

 『あ、うん。突然ごめんね、驚かせて。少しだけいいかな?』

 「はい、もちろんです!」


 ここが女子トイレということも忘れ、勢い込んで返事をした。狭い空間で反響する自分の声。しまったと思った。恥ずかしい。鈴加は鞄を引ったくって廊下に出た。N様の声を聞きもらすまいと、空いた方の耳を指で塞ぐ。


 『もしかして忙しかった?』

 「いえ、大丈夫です!」

 『はは、元気がいいなぁ』


 笑われちゃった。くすくす笑みを漏らすN様の声は、大好きな乙女ゲームキャラの和馬そのもので、ドキドキした。いや、まぁ、中の人なんだから当然っちゃ当然なんだけど。地声はもっと低いのかなとか勝手に色々想像してたから、ほとんどギャップがなくてかえって新鮮だ。


 「あの、どうかしたんですか? 電話なんて」

 『ああ、そうだよね。本当は電話するつもりなかったんだけどちょっと……嬉しくなって。僕の気持ちが伝わってたんだと思ったら感激して、我慢できなかったんだ。君がさっきくれた「脇役でも主役になれる」って言葉、まさに僕が込めていたメッセージなんだ。それを君に汲んでもらえるなんて、僕は本当に幸運だった』

 「そ、それで電話してくれたんですか?」

 『うん。単に僕が君と話したかったっていうのもあるけどね』


 悪戯っぽい声音にくらくらした。和馬は現実に存在しないけど。ずっと憧れていた大好きなN様と、電話越しにつながってるんだって事実は夢のように幸せだ。無意識にうろうろしていた鈴加は同じ大学の学生たちにおかしな視線を向けられた。が、そんなことはどうでもよかった。落ち着きのない鈴加と対照的に、N様は落ち着いていた。そして言葉を切った後、沈黙する。


 『はじめから……』

 「……?」

 『自分次第で未来を変えられるって、僕は君に証明したかっただけかもしれないな』

 「え……」


 ピンポンパーン…


 英語のアナウンスが流れているのと、無数の足音が漏れ聞こえて、鈴加はN様が騒がしい場所にいることを察した。


 『もう行かなきゃ』

 「もしかして空港にいるんですか?」

 『当たり。これから搭乗するんだ。まだ時間があったから、最後に君の声が聞きたくなってマネにわがまま言った』


 ふふ、と笑ったN様はどこか晴れやかで、吹っ切れたような声をしていた。君の声が聞きたくて――さらりと付け足された台詞と声が一段と甘くて、鈴加は赤面するのを止められなかった。


 「旅の安全を願ってますね」

 『ありがとう。ね、僕からもひとつ聞かせてくれる?』

 「はい。なんでも!」

 『それじゃあ……君はいま、幸せ?』

 「……!」


 一瞬、言葉に詰まる。鈴加はめまぐるしく過ぎて行った日々を胸に浮かべ、静かに瞼を閉じる。弓弦と再会して、プロジェクトNのおかげで変わった。はじめは外見から、徐々に内面を前向きな方向に引っ張ってもらえたことを今ではとても感謝している。もちろん東や千晴、早紀たちの力添えがあって実現できたことだ。


 「あたしは幸せです。とても幸せ」

 『自分のことを好きになれたかな?』

 「はい! 前よりずっと」


 迷わず返事をしたことで、息が弾んだ。N様は少し黙った後、心底ほっとしたような声で――


 『その言葉が何よりのギフトだ』


 そっと、囁いた。慈しみに溢れた言葉に、どうしてかひどく愛しげな声音に、胸が騒いだ。どうしてこんなにも、N様の言葉は――声は、心を掻き乱すのだろう?


 「N様、あなたは――……」

 『さよなら高橋さん。元気でね』

 「待っ、」


 プッと通話が途切れた後、余韻を噛みしめるようにスマホを見つめた。『さよなら』と告げたN様は、どんな顔をしていたのだろう。確かめる術はなかった。


 スマホを額に近付け、ギュッと瞼を閉じる。祈るような気持ちで。


 講義が終わり、ザワザワと賑やかになってきた廊下に、鈴加はひとり佇んでいた。校舎の中から見上げた空は、窓越しでも分かる鮮やかな青。その中を、飛行機雲がひとつ。きれいな直線を描いて伸びていた。

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