第37話 message from N


 次々と零れ落ちる涙は、意志に反して勢いを増していく。限界まで水を堰き止めていたダムが決壊したみたいに、とめどなく溢れてくる。


 鈴加は東の顔を直視できなかった。どんな言葉をかけたらいいのかも分からなかった。ただみっともなくクシャクシャになった顔で、しゃくり上げる声を抑えるので必死だ。


 「すまない。怖がらせてしまったみたいだね」


 気遣う東の声が胸に刺さる。ふるふる首を横に振って否定した。違う。怖かったんじゃない。それだけは誤解されたくない。


 「ちが、」

 「……僕に触れられるのは、嫌だった?」

 「!! そんなことない!」


 弾けるように顔を上げ、絡み合う視線。ドキリと心臓がひときわ大きく跳ねたのは、気丈な態度を取りつつも、東の表情が痛ましかったから。


 (何、やってるのあたし)


 これじゃまるで東を拒絶しているみたいだ。心の中で猛省しながら、鈴加は言うべき言葉を懸命に絞り出そうとした。


 「東くんに触られて嫌なわけないよ。むしろ……」


 嬉しい――。そう続けようとして、言葉を切った。この得体のしれない罪悪感は何?


 辛抱強く言葉の続きを待っていた東は、しばらくしてため息を零す。ただし呆れた様子はなく、珍しく緊張しているようだった。


 「……誰か他に、想う人がいるのか?」


 ドクドクと、ありえないほど心臓が早く脈打って息が苦しい。東の問いかけはまさに、鈴加が考えないようにしてきた可能性に達する。それをすぐさま消し去ろうとして、ぎゅっと拳を握った。


 「あたしが好きなのは……」


 ――東くんだよ。


 そう答えるつもりだった。ほんの、数分前まで。


 鈴加は血が滲むほど強く唇を噛みしめ、瞑目した。頭の中では答えが出ている。好きなのは東だと――喉まで出かっている。


 それなのに――……


 歯切れの悪い鈴加に対し、痺れを切らした東は申し訳なさそうに俯いた。


 「ごめん。久しぶりに君と会えたことが嬉しくて、舞い上がっていたようだ。こんなふうに焦って、君を困らせるつもりはなかった。不快な思いをさせたこと、どうか許して欲しい」

 「そんな、全然不快じゃないよ! わたしの方こそ、上手く言えなくて……」


 伝えたい言葉はたくさんあるはずなのに、いざ口にしようとすると形をなくしてしまう。ごめんなさい、と言う他なく、深々頭を下げて数秒。静かに体を起こし、鈴加は東を見つめた。


 「あの……さっきの話。少し時間をもらえるかな。きちんと返事、したいんだ」


 思いがけず熱のこもった視線を向けられ、東はやや驚いて瞳を見開いた。しかしすぐに緊張を緩め、いつもの穏やかな笑顔を浮かべる。


 「ああ。落ち着いて考えてみて、君の感じたことを率直に打ち明けてほしい。どんな答えでも僕は受け止めるから」

 「東くん……」

 「でもひとつ訂正しとく。困らせるつもりはなかった、って言ったけど――本当は、君を困らせてでも僕を意識して欲しかったんだと思う。君の中に少しでも居場所が欲しくて……」


 ――あなたの心に居場所が欲しい。


 それはいつも鈴加自身が願っていたことで、同じ願いを抱いていてくれていたのかと、心が震えた。「ありがとう」とどうにか絞り出した声は、頼りなげに掠れていた。それでも、瞼を拭った鈴加の精一杯の笑顔に――東は、励ますような微笑みで応えてくれたのだった。




**


***



 プルルル…


 やや気まずさを残して東と別れ、トイレで崩れた化粧を直していたとき、着信があった。鞄を探ってスマホを取り出す。メールだ。相手は――


 (うそっN様!?) 


 後ろにひっくり返りそうになりつつ、鈴加は震える手でスマホを持ち直した。N様からは本当に久しぶりの連絡で、心臓がドキドキする。


 「ほ、ほんとにN様? どうして急に……」


 すー、はー。深呼吸して、メールを開封した。


 『高橋さん


 こんにちは。久しぶりだね。元気にしていますか?

 今日は君に報告があって連絡しました』


 「報告? あ……」


 ――N様引退するってよ。


 千晴の言葉を思い出し、ズンと胸が重くなる。ようやくおさまった涙が、また溢れそうになって慌てて鼻をすすった。


 『弓弦から聞いたよ。就職決まったんだって? おめでとう。僕も君を応援する一人として、とても嬉しいです。君はもう乙女ゲームを卒業しただろうと思うから、こんな報告必要ないかもしれないけど、僕は声優を引退することになりました。短い間だったけど、仕事を通じてたくさんの出会いがあって、その一人に高橋さんがいる。訳あって素性を明かせなかった僕にとっては、君は接触することができた最初で最後のファンになります』


 引退の件は本当だったんだ。千晴の情報が正しかったと知り、寂しさが込み上げた。もうゲームを介して、N様の声を聞けなくなるんだ。


 『君の力になりたいと言ったのに、特別なことは何ひとつしてあげられなくてごめん。この携帯もまもなく解約するから、連絡を取ることができなくなるけれど――僕は世界中のどこにいて、何をしていても、君のことを忘れることはないと思う。応援してる。最後に、脇役ばかりだった僕のことを、たくさん応援してくれてありがとう。心からの感謝を君に。 N』


 これで最後――?


 鈴加はNがいなくなることを今更ながら自覚した。もう、連絡が取れなくなる。そう思ったら、すぐにでも返事を打ち始めていた。

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