閑話 見送る背中 ☆Side高橋律


 それは突然だった。


 バカ姉貴のヒーローだった弓弦兄ちゃんは、口は悪いけど行動は嘘みたいに優しくて、泣き虫だった姉貴を見てて恥ずかしくなるくらい大切にしてたんだ。


 それなのに、さよならも言わずに遠くへ行っちまうなんて信じられなかった。


 どうやら喧嘩をしたらしいというのは、最後に弓弦兄ちゃんに会った姉貴がひどく落ち込んでいたことで察したけれど、どうせ鈍くさい姉貴のことだから、弓弦兄ちゃんを怒らせるようなことを言ったんだろうと勝手に想像していた。


 それにしても……


 10年ぶりに再会した弓弦兄ちゃん、マジでカッコよくなってたなぁ。ほんとの兄貴だったらすげー自慢できるのに。なんで俺にはあんな姉貴しかいねーんだろ。


 「むかつく……」


 苛ついてボソッと呟いた時、車のエンジン音が響いた。近い。家の前で停まったみたいだ。部屋から窓の外を確かめると、従者っぽい男にドアを開けられる弓弦兄ちゃんの姿が見えた。


 慌てて階段を駆け下り、玄関を開けた。インターホンが鳴る前に出たもんだから、弓弦兄ちゃんは面食らってる。


 「……律。不用心だぞ」

 「窓からうちに来るのが見えたんだよ。それよりどーしたの? 姉貴に用事?」

 「いや、今日はお前に会いに来た」

 「え……!」


 嬉しい反面、時計で時間を気にする弓弦兄ちゃんの様子に嫌な予感がした。付き人は一礼すると、車の方へ戻っていく。


 「……どっかいくの?」

 「相変わらず勘がいいな」


 苦笑いを浮かべられ、胸が重くなる。なんだよ。俺に会いに来たと思ったらそんな用事……。


 「元々欧州に拠点を置いていてな。予定より少し早いが、帰ることにしたんだ」

 「仕事は?」

 「引き継ぎ済みだ。まぁしばらくはバタバタするだろうが、じきに慣れる」


 なんてことないように淡々と告げる弓弦兄ちゃんは、引き留めることすら許さない雰囲気がある。もちろん俺には弓弦兄ちゃんを思い留まらせるものなんて何ひとつ持ってないんだけど……。


 「急じゃん。姉貴はどーすんだよ」

 「鈴加なら大丈夫だ。お前もちゃんと分かってるんだろ?」


 ニッと口角を上げた弓弦兄ちゃんは自信たっぷりなオーラを醸し出してる。確かに、認めたくはないけど姉貴は変わったよ。成長したとは口が裂けても言ってやらないけど。


 「姉貴、最近変なんだ。すげー浮かれてたから、またナントカ様っていうゲームキャラに興奮してんのかと思ってたけど、たまに部屋から電話してる声聞こえてきてさ。廊下で顔合わせると、ぼーっとしてたり、ため息ついたりして壁に頭ぶつけてやんの。あれは絶対男だな」

 「よかったじゃねーか。二次元萌えの姉貴なんかクソ喰らえって息巻いてただろ? 三次元覚醒記念にハグでもしてやれよ。泣いて喜ぶぞ」

 「冗談じゃねーよ! 誰があんなキモオタエセギャル女!」

 「こら、言い過ぎだ」


 ポカ、と頭を小突かれたのでむぅと唇を尖らせ抗議する。


 「いいのかよ……姉貴のやつ、調子にのって彼氏とか作っちゃうかもしんねーぞ。どーせすぐ振られるだろうけど」

 「その時は相手の男に見る目がなかったんだ」


 さらりとフォローされて、ますます嫉妬で腹が立った。なんだかんだ言って、弓弦兄ちゃんは姉貴に甘い。砂糖漬けどころか蜂蜜漬けだ。吐き気がするくらい。


 「俺やだよ。また会えなくなるなんて……。弓弦兄ちゃんは俺らのこともうどうでもいいのか?」

 「バーカ。んなわけねーだろ。でなきゃ空港行く前に挨拶なんか来るかよ」

 「え、欧州帰るってまさか今から!?」

 「何驚いてんだ。さっきそう言っただろーが」

 「だって……」


 気が動転して上手い言葉が出てこない。オロオロする俺に対して、弓弦兄ちゃんはすげー落ち着いてる。宥めるような手が頭の上に乗る。わしわしと力強く撫でられて、俺は目を見開いた。


 「10年前に別れてからずっと、お前らのこと忘れた日はなかったよ。姉貴のことについてはあまり責めてやるな。元はといえば俺が悪い。子供じみた意地であいつを傷付けたこと、謝って許されることじゃないって分かってる。それでももう一度お前らに会えて嬉しかった」

 「それじゃここにいてよ! なんでまた遠くへ行っちまうんだよ!?」

 「お役御免ってやつだ。鈴加に俺は必要なくなった。いや、最初から必要なかったかもな……」


 自嘲気味な声を漏らし、手を離す弓弦兄ちゃん。瞳が僅かに揺れたような気がして、戸惑ってしまう。


 「お前は世界でたったひとりの弟なんだ。これからもあいつを助けてやれよ。それから、春子さんによろしくな」

 「なんだよそれ……これじゃほんとにさよならみたいじゃんか……」


 ガキみたいに泣きそうになって、ぐっと唇を噛んで耐えた。それを見抜いて知らない振りをしてくれているのか、一段と優しく微笑んだ弓弦兄ちゃんに、喉の奥がひゅっと鳴った。


 「俺、待ってるから」

 「ん?」

 「この際、姉貴は関係ない。俺にとっての兄貴は弓弦兄ちゃんだけだからさ。10年……はさすがに長かったけど、それでもまた会えてすげー嬉しかったよ。いつになってもいいから、また顔見せに来てよ。サッカー練習してもっと上手くなって、今度こそコーチ引き受けてもらうからさ」


 ――約束。


 言葉に出してはいけない気がして、代わりに拳を突き出した。少し驚いたように瞳を見開いた弓弦兄ちゃんは、それでも、俺に応えて胸に拳を突き出す。


 「ああ。どこにいても俺はお前の兄貴だ。ずっと応援してる」


 拳を合わせて数秒。付き人が弓弦兄ちゃんに合図を送って、とうとうフライトの時間が迫っているんだと思った。車に乗り込む直前、振り向いた弓弦兄ちゃんにめいっぱい手を振ったのは、そうしていないと追いかけてしまいそうな自分へのブレーキだったかもしれない。


 「……またな。絶対戻って来いよ」


 誰にも聞こえない呟きを漏らして、俺は住宅街に消えて行く高級車を見えなくなるまで見送った。


 憧れていた大きな背中には、空高く駆ける翼が生えているような気がした。


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