第33話 揺れる想い


 「鈴加、就職おめでとう!」

 「ありがとう千晴……!」


 弓弦と電話し――最後は一方的に切られた翌日の夜。千晴と就職祝いをする約束があった鈴加は、スペインバル風のバーレストランにいた。


 カウンターが並ぶ細長い形の店内は奥行きがあり、黒板にチョークで走り書きされたメニューに味がある。キッチンの天井からぶら下がる数え切れないグラス、そして大きな生ハムの足。


 軽快な音楽をBGMにまずは乾杯。二人でグラスビールをカシャンと合わせ、グイとお酒を流し込んだ。胃の中に炭酸が流れる心地よさを感じながら、ぷはぁ、とほぼ同時に息を吐き出す。千晴は早速タパスに手をつけ、鈴加の方に体を向けた。


 「で、どう? 気分は。この時期に就職決まってる子って少ないのよ。もう内定もらってるなんてすごいじゃない」

 「ほんと、自分でも信じられないよ。弓弦くんの鬼コーチっぷりは凄まじかったけど、頑張ってよかった! あ、もちろん千晴が励ましてくれたおかげで続けられたんだよ? ほんとにありがとね」

 「私は応援しただけよ。鈴加が諦めなかったから掴んだチャンスじゃない。もっと胸を張って」

 「えへへ……じゃあちょっとだけ」


 ない胸を張り、照れたように頬を掻いた。「今日は私の奢りだからじゃんじゃん好きなの食べなさいよ」と食事を勧められはじめは遠慮したが、せっかくの厚意なので気になるメニューを頼むことにした。


 最初に注文したのは小エビのアヒージョ。カリッと焼けたバゲットをオイルに浸しつつ、熱々のうちに口へ放り込む。にんにくの香ばしい風味が口いっぱいに広がってほっぺたが落ちそうになった。鈴加は幸せそうに目を細めた後、くすりと微笑む千晴に、


 「そうそう、実はN様のお宝CDを入手したの! パスワードがかかってて聴けてなかったんだけど、ようやく解除できてね。再生したらもぅ耳が幸せすぎてヤバかった……! 『愛してる』の声が激甘でニヤニヤしながら何度もリピートしちゃったよ」

 「ふぅん? てっきり東王子にぞっこんでN様の存在なんて忘れ去ったかと思ったのに違ったの?」

 「東くんは東くん、N様はN様だもん」 

 「はぁ。二次元は別腹なわけね。でもそんなこと言ってられないわよ。N様、引退するらしいし」

 「ふーん、引退……って、えええぇえええ!!?」

 「ちょ、声が大きい!」


 ガタタッと椅子からひっくり返りそうになった鈴加の腕を、千晴はめいっぱい引っ張った。幸い、賑やかな店内ではさほど目立たなかった。けれど鈴加は顔面蒼白だ。


 「う、嘘でしょ? 引退なんて早すぎるよっ!」

 「私に言ってもしょーがないでしょ。ま、N様って元々メディアに顔出ししてなかったわけだし、謎のアイドルが姿を消したって別に――」

 「大問題だよ! あたしの心のオアシスだったのに! ていうか千晴、なんでそんなレア情報知ってるの!?」

 「企業秘密」

 「そんなぁ~。ハッ! そうだ、N様にメールしてみよう!」


 すばやくスマホを取り出し、にらめっこする。メールを打とうとして、鈴加は動きを止めた。


 「どうしたの? 手、止まってるけど」

 「うん……。やっぱりメールはやめとく」

 「あら。意外に諦め早いのね?」

 「N様にも事情があるんだろうし、一ファンのあたしがどうこういえる話じゃないから」


 しゅんと項垂れ、涙ぐみそうになりながら、それでもスマホをバックにしまう。その様子をじっと眺めていた千晴は感心したように笑みを深めた。


 「驚いた。鈴加、ほんと変わったね。これも恋してる効果なのかな」

 「恋……?」

 「なんでキョトンとしてるのよ。東王子のことに決まってるじゃない」

 「え。ああ! うん。そだね」


 たしかに東は鈴加の『王子様』だ。初めて会った時からずっと憧れの対象で、今は友達になれたことが信じられないくらい。とはいえ、N様はまた別な話。さっきまでの元気はどこへやら、背中を丸めてお酒をちびちび飲み始めた鈴加。その背中に優しい手が触れた。


 「そんなに落ち込まないで。N様のことは残念だろうけど、架空のアイドルに憧れたって仕方ないでしょ。目の前にリアル王子様が現れたんだから、心置きなく幸せになればいいのよ」

 「東くんにだって選ぶ権利あるよ」

 「可愛く変身してもまだ自信が持てないの?」

 「それは、前よりずっと自分のこと好きになれたよ。でも、それとこれは別というか。N様は乙女に夢を与えるお仕事をしてくれてて、ゲームのキャラが現実にないことくらい分かってる。でも、N様がゲームを通してくれた元気とか、癒しは本物だったよ。だからN様がいたことも、感謝の気持ちも忘れられないよ」


 カラン、とグラスの中で氷が溶ける。炭酸の泡がグラスの底から次々と湧き上がるのを見つめて、鈴加は唇を引き結んだ。


 「引退かぁ……残念だな」

 「N様もそんなに喜んでくれたファンがいたなら、とても誇らしいと思うわ」

 「そうかな?」

 「そりゃそうよ」

 「だと嬉しいな」


 少しだけ元気を取り戻し、運ばれてくる料理に手をつける鈴加。美味しいけれど、あまり味がしない。胸をよぎる寂しさを拭いきれないせいかもしれない。


 「どうしたの? N様のことを抜きにしても就職決まったっていうのにイマイチ元気ないね」

 「……うん。実は昨日、弓弦くんから電話があって」

 「ハァ? 魔王が何用よ」

 「あはは。千晴、ほんと弓弦くんに容赦ないね」


 ゴン、と強めにグラスを置いた千晴に、鈴加は苦笑した。


 「なーんて、あたしも少し前までは同じ反応だったと思う。だけど今は不安なの。弓弦くんがまた、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって気がして」

 「……! それは……別にいいんじゃない? これ以上あいつに関わる理由ないし。振り出しに戻っただけと思えばいいのよ。ひどい別れ方した上に、10年も音沙汰なかったんだから」


 情状酌量の余地なし! と言い放ち、グビグビお酒を飲み干す千晴。鈴加は無言でグラスの淵を指先でなぞる。


 「千晴はさ、弓弦くんが忙しいこと知ってた? うちで勉強教えてくれてる時も、頻繁に会社から連絡入ってたんだ」

 「家の仕事手伝ってるっていうのは聞いた。でもまぁ、ムカつくくらい要領いい奴だし、本人が大丈夫って言うなら大丈夫よ」

 「うん、あたしもそう思ってたんだ。弓弦くんのイメージはスーパーマンで、なんでも卒なくこなしちゃうから、人より頑丈にできててちょっとくらい無理しても平気なんだって。でも……」


 瞼を閉じれば蘇る光景。ぐらりと揺れた広い背中。思わずよろけた体を咄嗟に支えたあの日。

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