第32話 you're my hero ☆Side 大神弓弦


 ――また、急にいなくなったりしないでね。


 思いがけない反応。心細そうな声に揺さぶられて、咄嗟に返事ができなかった。バカだなって笑い飛ばして誤魔化すこともできたのに、そうしなかったのは鈴加への後ろめたさからだろうか。俺は嘘を吐き続けている。10年前、ひどく突き放したあの瞬間からずっと。


 「そろそろ仕事に戻る。お前はあまり夜更かしするなよ」

 『あ、待って!』


 手短に電話を切ろうとして引き留められた。珍しいこともあるもんだ。電話越しにすー、はー、と深呼吸する息遣いが聞こえて、鈴加の緊張が伝わってくる。


 『……ありがとう。弓弦くんがいてくれたおかげで変わるきっかけをもらえたこと、あたし、ずっと忘れない。もうダメかもって諦めそうになったとき、何度も背中を押してくれたよね。普通なら面倒になって投げ出しそうな場面でも、辛抱強く励ましてくれて、ほんとに心強かった』

 「なんだよ、改まって」

 『まだちゃんとお礼言ってなかったから、感謝の気持ち、伝えたかったんだ。ねえ、弓弦くん。弓弦くんから見てあたし、少しは変われたかな? もう、のろのろ鈴虫じゃない?』

 「そうだな。今のお前をバカ橋とは呼べないな」

 『ほんと!?』


 おずおずと不安げだった声色が一瞬で明るくなり、鈴加がとても喜んだことが分かる。鈴加が笑うと、それだけで幸福な気分になってしまう。ふと笑みを零してしまい、側にいる榊を驚かせてしまった。だめだ、無意識に頰が緩む。


 「話は済んだか? ならもう切るぞ」

 『あぁっ、待って待って! ここからが本題なの!』

 「それならさっさと用件を言え」


 甘くなり過ぎないよう自分を戒めながら、わざと冷たく言い放った。ビクリと怯えたような空気を感じて、胸が痛む。


 『あのね、やっぱりちゃんとお礼がしたいから、今度少しでも会えないかな?』

 「無理だ。そんな時間はない。誰かさんの就活対策のためにずいぶん予定が狂わされたからな」

 『うっ……! そ、それは申し訳なく……!』


 嫌味たっぷりにチクチク責めれば、とたんに萎縮していく。お礼だと? 何をバカなことを言っている。そもそもトラウマを植えつけた張本人に頭を下げる理由なんてない。むしろ強引に罪滅ぼしに付き合わされた文句を言っていいくらいなのに、まったくどこまでお人好しなのか。


 『確かにこれ以上あたしのわがままに付き合ってもらうなんて図々しいよね。でも残念だな。お詫びも兼ねて何かお返ししたかったから』

 「お詫び? 予定のことなら、」

 『ううん、それもあるけど違うよ。その、この間のことがずっと気になってて。弓弦くん、体調はもう大丈夫なの?』


 気遣わしげに問われ、不意に胸が疼いた。あの時――鈴加の部屋を出ようとしてふらついたことを心配しているらしい。鈴加が側にいて、張り詰めた糸が緩んで気が抜けてしまった――なんて事実は伏せて黙り込む。他人に弱みを見せるなど、決してあってはならないと言い聞かされて育った自分が、鈴加の前でだけ心を許してしまうのはどうしてなのか。


 「問題ない。あの時はたまたま疲れてて、少し目眩がしただけだ。お前はいちいち大げさなんだよ」

 『大げさじゃないよ。倒れそうになるくらい具合が悪かったことに気付けなかったのが悔しいの。すぐ側にいたのに、弓弦くんなら大丈夫って決めつけて安心しきってた。……横着してた』

 「バカ。何も言わずに察して欲しいなんて思ったら、俺の方がずっと横着だろうが。お前が気にすることなんて何もない。過ぎたことは忘れろ」

 『無理だよ。なんで弓弦くんのSOSに気付けなかったんだろうってずっと後悔してる。自分のことで精一杯だったなんて言い訳したくない。だって弓弦くんはどんな時もあたしのピンチに気付いて駆け付けてくれた。だから絶対、見落としちゃいけなかったのに』

 「高橋。いいからもう――』

 『あたし次は絶対見落とさないから! ちゃんと弓弦くんのこと見てるから。だから――』

 「高橋!」


 強く遮れば、彼女が息を呑む。だが、取り繕う余裕はなかった。これ以上近付かれると勘違いしそうになる。自分は鈴加に許されるのではないかと――いらぬ期待を抱いてしまう。


 「いいから、もうやめてくれ。頼むから……」


 一呼吸置いて出た声は冷静さを欠いていて、早く動揺を鎮めなければと内心焦る。一方、電話の向こうで鈴加がどんな表情をしているかと想像すればひどく自己嫌悪に陥った。違う。怖がらせたいんじゃない。お前は何も悪くない。


 「悪いな。少し気が立っていたようだ。お前の言うとおり、疲れていたかもしれない」


 慎重に、できるだけ柔らかな口調で告げた。鈴加を安心させたかった。


 『ううん、あたしこそごめん。こういうの、押し付けがましいって思うけど、あたしは……弓弦くんのこと友達だと思ってるから。放っておけないよ。まだまだ頼りないし、弓弦くんの助けになれるようなこと、いまはたくさんはないかもしれない。それでも、疲れたときに休めるように、SOSに気付けるように――今度はあたしが弓弦くんを助けに行けるようにしたいんだ』 

 「高橋……」


 ソファに深く体を沈めて、ため息を吐いた。ガラス張りのオフィスは高層階にあって、眼前に眩い夜景が広がっている。榊が用意してくれていた眠気ざましのコーヒーに手を伸ばし、口に運ぼうとしてやめた。


 「前言撤回だ。お前はやっぱりバカだ。それもどうしようもない超ド級のな」

 『えぇー!?』

 「ったく、お前が俺の心配するなんて100年早いんだよ! 調子のんなバーカ」


 どこまでバカでお人好しなんだ、と腹立ち紛れに舌打ちした。だけどそんな彼女の幸せを願わずにいられない自分が一番愚かなんだろうと――その事実がまた苛立たせる。無邪気に見せる笑顔ひとつで、どんな無茶な願いでも叶えてやりたくなる。なんでも許してしまいたくなるから重症だ。すぅっと波が引くように負の感情が浄化されて、胸に残るのは甘い疼きと温かい幸福感だけ。


 ――もう二度とあの笑顔は見られないと思っていたのに……。


 屈託のない、花のような笑顔を向けられ胸が詰まった。どれだけ自分に言い訳して、巧妙に隠しても否定しようがない。


 ――高橋の笑顔を取り戻したい。


 そうだ。そのために再会した。目的は達成された。これ以上何を望むことがある? 


 「もう貰ってるよ、十分。だからこれ以上お返しはいらない。だけど、そうだな。お前がどうしてもっていうんなら、笑ってろ。辛いことがあっても、一人で泣いたりするなよ」

 『……! それ、全然お返しにならないんじゃ……』

 「なるんだよ。むしろそうでないと困る」


 抱きしめてやれない距離で泣かないでほしい――なんて口が裂けても言えないけれど。たとえ泣いていても抱きしめてやれない、その役目は自分じゃないことは誰より分かっているつもりだ。ただ、笑顔を望むことなら許されるだろうか? 鈴加が笑顔で過ごせる日々を。


 (悪いな高橋。結局最後まで、俺がお前にしてやれることは何もない。こんな形でしかお前の側にいられない、関われない。それが本当に……)


 「――鈴加」


 気持ちを切り替えて、静かに呼びかけた。自分でも驚くくらい、穏やかな声音だった。 


 「これから先何があっても乗り越えられる強さが、お前にはある。信じろ。これからも自分自身と、お前を支えてくれる奴らを大事にな」

 『う、うん』

 「よし。いい子だ」


 自然と笑みが零れた。プロジェクトNはおおかた目論んだとおりに進んだ。あとは諸々の後始末をして、日本を発つだけだ。鈴加は未来に向かって確実に前進している。元々芯のある子だ。これからどんどん成長していくだろう。背中に庇われて、小さく震えているだけの女の子じゃない。


 『弓弦様はまだ子供でいらっしゃるのに、大人のような表情をされて、何を考えているのか分からないわ』

 『本当に。なんだか少し怖いわよね。特にあの目……他人を見透かすようで落ち着かないったら』


 子供の頃、家で立ち聞きしてしまった使用人達の会話。表向き愛想を振りまいてきても、内心快く思われていないことは察しがついていた。だからいつものように聞こえなかったふりをした。遊びに来ていた高橋の手を引いて、そのまま立ち去ろうとしたことがあった。だが、鈴加は予想外の行動に走ったのだ。俺の手を振り解き、使用人達に駆け寄ったのだ。


 『そんなことないよ。弓弦くんは優しいよ! お姉さんたち、ちゃんと見てる? 弓弦くんを、ちゃんと見て!』


 小さな客に服の裾を掴まれて、使用人達はさぞ面食らっただろう。珍しく「友人」として招待した女の子。必死になって縋り、取り乱した彼女を宥め、俺は使用人達を下がらせた。泣き虫とは知っていたが、泣き崩れる鈴加を前に、途方に暮れた。どうして泣いているのか、理由が分からなかったから。


 『お、おい。なんでお前が泣くんだ』

 『だって弓弦くんが平気な顔してるから……っ』


 顔をくしゃくしゃにして泣いた鈴加。戸惑いながら、自分のために心を痛める鈴加が愛おしくて、だけどどうすれば笑わせてやれるのかも分からずに、側にいた。あの瞬間、俺がどれほど救われたか、鈴加は知らない。それから何度も、数え切れないくらい肩の荷を軽くしてくれたことも――。


 「お前のヒーローになったつもりが、ほんとうはお前が俺のヒーローだったのかもな」

 『え……、それはどういう』

 「ありがとな、高橋。元気でやれよ」

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