第31話 幸せの階段
「やっぱり、警察に行くのはやめましょう」
千晴の申し出は鈴加と東を大いに驚かせた。ついさっき弓弦と電話をするまでは、「同行するわ」と言って東の案に前向きだったからだ。
「どうして? そりゃ警察のお世話になるのはすごく勇気がいるけど……もしこれでみんなの安全が守れるならあたし、平気だよ。もちろん、二人が一緒にいてくれるから、だけど」
「急に意見を変えて混乱させたのは謝るわ。でも、行く必要がなくなったのよ。犯人と黒幕が割れて、既に手は打ってあるから」
「「え!?」」
二人同時に目を丸くすると、顔を見合わせる。じっとその様子を見守っていた千晴に、東は静かに向き直った。
「情報は確かなのか? この短時間で、一体何が――」
動揺を隠せない東の腕に掌を重ねた直後、鈴加は飛び上がった。着信だ。見知らぬ番号に出るのを躊躇っていると、千晴に応答を促された。おそらく理事長絡みだろうと小声で付け足され、ますます訳が分からなくなる。
「も、もしもし? 高橋です」
千晴と東が見守る中、「はい」と何度か相槌を打ち、手短に電話は切れた。呆然とする鈴加の肩をさり気なく引き寄せ、東が顔を覗き込む。
「どうした? 何か動きがあったのか?」
「う、うん。それが、『さっき呼び出した件は当方の勘違いだった、忘れてくれ』って」
「なんだそれは! 散々人のことを馬鹿にしておいて、よくもそんなことを!」
珍しく悪態を吐いた東だったが、千晴は冷静だった。もちろん、事の経緯を把握していた――弓弦から説明を受けた――からだ。怒り狂う東を宥めようとオロオロする鈴加。しかし東は鈴加の手を優しく押し返し、千晴に訝しげな視線を向けた。
「さっき、事件は解決したと言ったな。情報源……提供者は信頼できる人物なのか?」
ドクン、と心臓が高鳴り、千晴は唇を引き結んだ。即答できなかったのは弓弦への敵対心か、鈴加への後ろめたさか。東の試すような、挑戦的とも取れる眼差しにやや気おくれしそうになる。だが、こんなところで全てを明かすわけにはいかないのだ。弓弦が関わっていることを鈴加に気取られれば台無しだ。
「信頼できる人よ。鈴加の親友として保障するわ」
幸い、演技は得意分野だ。千晴が毅然とした態度で応えると、しばらく黙った後、東は頷いた。ほっと胸を撫で下ろした鈴加の傍らで――僅かに千晴の顔色が曇ったことに、その場では誰も気付かなかった。
***
「「鈴加、就職おめでとう!」」
「ありがとう! パパ、ママ、鈴加は無事社会人になりますっ!」
「会社が倒産しなけりゃあな」
「律、ものすごく現実味のある嫌味は言わない!」
春子にポカッと頭をはたかれた律は、しかめっ面で鈴加を睨んだ。事件解決から数日後、最終面接を終えた鈴加は奇跡的に採用された。高橋家にとって娘の内定は、またとない朗報……のはずだ。
「律っちゃん、喜んでくれないの?」
しょんぼり項垂れる鈴加に、後ろで「祝え」オーラを放つ両親。さすがに居心地が悪くなり、律は白旗をあげた。
「ま、よかったんじゃねーの。元々選べる立場でもな……痛っ! やめろぉぉ抱き付くな気色悪い!」
「まあ、麗しい兄弟愛ね!」
「愛し合ってない! 一方通行だ!」
「はっはっはっ! 二人はいつまでも仲良しだなぁ!」
わぁわぁ喚く律を無視して抱きつく鈴加だったが、もうすっかり成長した律が本気になれば簡単に振り解けることは分かっていた。文句を言いながら引き剥がそうとしないところが優しい。諦めのため息を零し、律は鈴加を見下ろした。ギクリと肩が跳ねたのは、彼女の瞳に大粒の涙が溜まっていたからだ。
「おい、お前――」
「と、友達に結果報告して来る!」
豪快に鼻をすすって居間を飛び出した鈴加の背中を、律は追いかけることができなかった。
*
勢いよく自室の扉を閉め、ずるずるその場に座り込む。電気を消したままの部屋は薄暗く、階下のどんちゃん騒ぎはほとんど聞こえない。鈴加はゆるりと部屋の中を見回し、古びたぬいぐるみと視線が合った。
(ちょっと毛玉になってるな。長いことクリーニング出してないもんね)
アンティークのテディベアは首に桃色のリボンが巻かれている。子供の頃、弓弦に貰ったプレゼントだ。当時は高価なものと知らず、外で遊ぶ時にも連れ回し、汚しては母親に叱られた。辛いことがあった日は、枕元に寝かせて眠った。人形に表情がないのは見る人の心に共調するためだと聞いたことがある。いつも微笑んでいるように見えるぬいぐるみが、今はなんだか悲しそうだ。そう思うのは、自分が揺れているからだろうか。
(就活が終わったら気持ちが楽になると思ってたのになあ)
内定の連絡を受けて、喜びと解放感で胸が震えた。と同時に、形容しがたいモヤモヤが燻り、息苦しさを覚えた。その正体が分からずに両膝を抱えて顔を埋める。洋服から柔軟剤の香りがした。洗い立ての服はさらりと肌を滑って心地が良い。
(このまま寝ちゃおうかな……でも、晩ごはんがまだだし……)
悩んでいてもお腹は減る。ぐうぅ、と情けない悲鳴を漏らしたお腹をさすり、のろのろ立ち上がる。ドアノブに手を回そうとしたその時、バイブレーションが鳴った。ディスプレイに表示された名前は――
「弓弦くん……!?」
彼は忙しい身だ。慌てて手を伸ばし、応答した。
「もしもし? 弓弦くんが電話くれるなんて珍しいね」
『この間最終面接だったろ。そろそろ結果が出たんじゃないかと思ってな』
「あ」
『決まったのか?』
「うん。実はさっき連絡があって、家族でお祝いしてたとこ。まあ、律はあんまり嬉しそうじゃなかったけど」
『あいつは素直じゃないからな。照れくさいんだろ』
「無理やり抱きついたら怒られちゃった」
『それでも本気で押し返しはしなかったろ?』
「さすが、よく分かってるね」
明るく笑って、会話が途切れた。気心の知れない相手なら沈黙が気まずいものだが、弓弦が相手だとそういう焦りは不要だ。自然と訪れる静寂は快い。昔からの友人と過ごす、そんな雰囲気だ。再会後、はじめは辛くあたってきた弓弦も、最近では笑顔を見せてくれるようになった。それは毎回、鈴加が変わろうと努力して、ステップアップした時だ。自分のことのように嬉しそうな弓弦を見ると、誇らしくてちょっぴりくすぐったい気持ちになる。
(弓弦くんに相談してみようかな)
今なら分かり合えるかもしれない。もう一度、友情を取り戻せるかもしれない。そんな淡い期待を込めて、鈴加は「あのね」と躊躇いがちに切り出した。
「なんか、怖いんだ。最近、色々上手く行き過ぎてるっていうか。学校でもその、少しトラブルがあったんだけど、誰かのおかげですごく助かった。だけど肝心なところで蚊帳の外だったから、訳が分からないままなんだよね。このままうやむやにしちゃっていいのか、正直迷ってる」
事件の内容はぼかしながら、ぽつりぽつりといきさつを話す。その間、弓弦は何も言わず辛抱強く聞いてくれた。
『お前は犯人を知りたいのか? 陥れた人間を探し当てて、復讐したい?』
「ま、まさか! そんなこと考えてないよ! あたしはただ、自分の知らないところで誰かに守られてるっていうのがムズムズして落ち着かなくて」
『へえぇ、言うようになったじゃねーか。千晴や俺の背中に隠れてオドオドしてたバカ橋が、目覚ましい成長っぷりだ』
「う……」
――やっぱり
苦虫を噛み潰したような渋面で、鈴加は絶句した。明らかに人選ミス――相談相手を誤った自分を呪いたい。
『細かいことは気にすんな。どこかで誰かがお前のために働いたとして、それはそいつの意志だ。勝手にやってることなんだし、気負う必要はない。むしろせいぜいこき使ってやればいい』
「そんなことできないよ」
『無駄に義理堅いな』
「無駄には余計です」
ボソッと反抗した鈴加だったが、弓弦は軽くそれを受け流した。
『……例えばの話だが』
「え?」
『お前の大事な奴がピンチに陥ったと知ったら、何かしたいと思うだろ? それで実際行動に移して、感謝されなかったら後悔するのか? 助けなきゃよかったと思うのか?』
「そんなことないよ!」
『だろ? それと同じことだ』
(あ……)
ごく当たり前のように諭され、肩の力が抜けていく。
『人間って贅沢な生きものだからな。幸せを手にしたら、失いたくない、もっと増やしたいと思ってしまう。だけど全てのものには終わりがある。命も、時間も――こうしてる何気ない一瞬も、限られていて、どんなに愛しく思っても手放さなきゃいけない時が来る。だからこそ、悲観するな』
――悲観するな。
凛然と告げられた一言に、心が揺れる。ただ、ぼんやりとしか弓弦の意図を掴めなかった。
「えっと……む、難しくてよく分かんない」
『ま、簡単に言えばウジウジしてる暇はないってことだ。幸せを手に入れたら素直に喜んで、精一杯大切にすればいい。幸せってのは誰かと分け合うものだからな。最初から、ひとり占めしようなんて思わないこと』
なるほど、とふんふん頷く。少しは自分で考えろ、とか言われるかなと思っていたので、すらすら答えを教えてくれたのが意外だった。心を読んだように弓弦が種明かしする。
『ま、今夜は特別だ。幸せになれよ』
「あたしも幸せになっていいのかなぁ……?」
『当たり前だろーが。ったく。シケた声出してんじゃねーよ。せっかくの祝いの日だ。もっと喜べ!』
「うん……!」
ようやく元気を取り戻した鈴加の様子に、弓弦は優しく微笑した。もちろん、その表情を鈴加が見ることはなく――後ろに控えていた榊が代わりに大層驚く羽目になった。
『高橋、就職おめでとう。お前には勿体ない恋人もできそうなことだし、もう俺が教えることは何もない。Nのご褒美CD、パスワード後で送っといてやる。二次元卒業祝いだ。ありがたく拝聴しろ』
「え、教えることはないって、もう会えないの?」
『なんだお前、寂しいのか?』
からかうような口調。いつもなら、「そんなわけないし!」と切り返すところだ。だが、鈴加は返事に詰まった。ここに千晴がいれば、調子に乗るなと飛び蹴りをかます勢いだったろうが。
「また、急にいなくなったりしないでね」
電話越しに、弓弦が息を呑む気配を感じた。いつもみたいに「バカだな」と笑い飛ばして欲しかった。もう二度とあんな思いはしたくない。もちろん、全てを完全に許したわけじゃなかった。心のかさぶたが剥がれて今でも時々じくじく痛む。だけど10年振りに再会した弓弦は、鈴加が自信を取り戻すきっかけを与えてくれた。結局は弓弦に振り回され続けた日々だったが、それでも、彼に助けられていたところが大きいと感じていたのも事実だ。
「弓弦くん、聞いてるの?」
『……善処する』
「それ、やる気がない人の常套句だよね」
むむっと不満げに唇を尖らせる鈴加だった。
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