第29話 見えない帆を胸に


 呼び出しを受け、理事長室へ向かう鈴加の足取りは重かった。一人で行くと主張したものの、東が隣にいなければ不安で胸が潰れそうだ。


 「心の準備はいいか?」

 「う、うん」


 理事長室のドアをノックする前、深呼吸して頷いた。嫌なことは先延ばしにしても避けることはできない。それなら早く済ませてしまった方が得策だ。気合いを入れて扉を叩くと、中から事務員らしき男性が顔を出す。


 「あの、放送聞きました。経済学部3年の高橋鈴加です。入室しても?」

 「お待ちしていました。どうぞこちらへ。……あなたは?」

 「彼女の友人です。今回お呼び出しの件に心当たりがあり、同行しました」

 「少々お待ち下さい」


 理事長の許可を仰ぎ、かまわんとの短い返答を受け、二人は部屋に入った。上質そうな革張りのソファに座るよう促され、東も後に続く。両手を膝の上に置き、浅く腰かけた。理事長は既に着席していて、鈴加に鋭い視線を送った。反射的に身が竦み、ごくりと生唾を飲み下す。


 「単刀直入に聞こう。君と同じ学部の西園寺さんが何者かに襲われた。しかも白昼、学内でだ。こちらの情報によると、君は事件と関係のある人物らしい。事情を知っていたら話してくれるね?」

 「あ、私は――」


 違います、と喉まで出かかってつっかえた。おそらく彩葉自身が仕組んだ罠なのだが、証拠がない。鈴加が沈黙すると、やましいことがあると判断した理事長は声のトーンを落とす。


 「確たる証拠はないが、君が重要な参考人であることは分かっている。先日、複数回に渡って掲示板に書き込まれた西園寺さんの誹謗中傷、そして事件を予告するような脅迫めいたメッセージ――それらは全て君のアカウントが使用されていた。何より、西園寺さん自身が証言しているのだよ。君にひどい言いがかりをつけられ、日頃から付き纏われていたと」

 「待って下さい、誤解です」


 青ざめる鈴加を気遣いながら、東は毅然と割り込んだ。背筋をピンと伸ばし、冷静な面持ちで理事長に対峙する。軽く眉間に皺を寄せ、理事長は咳払いした。


 「君は?」

 「同じく経済学部3年の東です。彼女があらぬ疑いをかけられていると知り、駆け付けました」

 「ふむ。確か君は事件に心当たりがあると言っていたね。それはどういうことかな?」

 「彼女は犯人ではありません。なぜなら、彼女自身が被害者だからです」

 「何? 詳しく話してみたまえ」

 「東くん!」

 「すまない。だがこのまま黙っていては取り返しのつかない事態になる。それだけは避けたい」

 「でも……!」


 食い下がる鈴加を制止したのは理事長だった。東の話に興味を惹かれたのか、彼の視線は既に東へ移っていた。大丈夫だと鈴加を見遣った後、東は決心を固めて口を開いた。


 「学内――旧図書館の地下書庫で何者かに襲われたのは、彼女です。僕は偶然その場に居合わせ、犯人を目撃しています。間違いありません」


 予想外の返答だったのか、理事長は大きく瞳を見開いた。一瞬唇を震わせ、固く引き結ぶ。それは彼に大きな衝撃を与えたことを物語っていた。


 「それは本当かね? 見間違いなどではなく?」

 「間違いありません。その直後、彼女を保護したのは僕です」

 「なんと……! それならなぜその時に被害を申し出なかった? 下手をすれば今回の事件と同一犯の可能性がある。学内で二度も女生徒が襲われたなど、大変な不祥事だ!」

 「事件の内容はとてもデリケートです。幸い、大事には至りませんでしたが、心の傷が大きく、周囲に話すことができなかったのだと思います」

 「むむ……」


 理事長は両方の腕を組み、疲れた様子で深くソファに背を預けた。


 「それでは、掲示板に西園寺さんの誹謗中傷を書き込みをしたのは高橋さんではなく、別に犯人がいると、君はそう考えているのか?」

 「はい。もっとよく調べて下さい。彼女のアカウントが不正に乗っ取られたことが分かれば、すぐに身の潔白を証明できるはずです」

 「しかし、そもそもなぜ西園寺さんは君を犯人だと断定した? 二人の間には何か――確執があるのか?」

 「それは……」


 東と理事長、両方から見つめられ、鈴加は俯いた。東が鈴加を選んだことが原因で彩葉のプライドを傷つけたことや、彼女から『東に近付くな』と警告されたことを今ここで話すのは気が進まなかった。東が事実を知れば必ず自身を責めるだろうし、危険を顧みず助けてくれた彼の優しさを、悲しみで濡らすことはしたくない。


 どう答えるか考えあぐねていると、痺れを切らした理事長がため息を漏らした。


 「君たち二人の間で何があったかは知らないが、西園寺さんは警察沙汰にする気はないと言ってる。君も何かしら非があると思うなら、素直に謝罪したらどうかね? うちは西園寺家と付き合いが古くてね。できれば内々に処理したい」

 「理事長!?」


 信じられないといった表情で不満の声を上げたのは東だ。しかし理事長の反応は淡々としていた。彩葉が事件を訴えてきた時、あまり大事にはしたくないと念押ししたこと、また、鈴加が仄めかした二人のすれ違いから、何らかの誤解が生じているということは察したようだった。ただ、それは彼にとって重要な点ではない。


 「真実がどうであれ、我が校としては不名誉な噂が立つのは好ましくない。女生徒が学内で襲われるなど、あってはならないことだ。幸い二名とも怪我はなかったようだし、取り急ぎ警備を強化することで対応しよう」

 「なっ、まだ学内に潜んでいるかもしれない犯人を野放しにするんですか? また同じように高橋さんが――西園寺さんや他の誰かが危険に晒されるかもしれないのに!」

 「私は理事長として最善の手を打っている。君もこんな揉め事に巻き込まれているなんて周囲の人間に知られたくはあるまい。早いところ高橋さんを説得して、円満な解決に協力してくれたまえ」


 話は以上だと一方的に告げられ、食い下がろうとする東の肩を事務員が掴んだ。首を左右に振り、速やかに退室を促す。納得できずに踏み留まる東を動かしたのは、鈴加だ。


 「行こう、東くん」

 「だが、まだ話は終わっていない!」

 「いいの。大丈夫だから、もう行こう?」


 決意を込めた瞳に、東は押し黙る。それから追い出されるように理事長室を後にし、長い渡り廊下を歩いていく。東はひどくショックを受けていた。まさか学校側がこうもずさんな対応を取ると思わなかったのだ。事実を話せば真摯に事の重大さを受け止め、生徒の安全を最優先に考えてもらえるものと期待していた。もちろん、鈴加のことも公正に判断されるだろうと踏んでいたのだ。


 「東くん、落ち着いて」

 「どうして落ち着いていられる? 君は今、自分がどんな立場にあるのか理解しているのか?」


 苛立ちから、腕に触れた鈴加の手を払い、東はハッと我に返った。怒りで我を忘れそうになっていたのだ。不誠実な対応、またそれ以上に、鈴加の無実を証言するため同行した自分が結局役立てなかったことが悔しくて仕方ない。必ず守ると約束したのに――。


 「すまない……、僕はまた君を守れなかった」

 「へ? 何言ってるの。東くんはちゃんと守ってくれたよ?」

 「気休めはよしてくれ。結局、君の疑いは晴れなかったし――」

 「でも、あたしの代わりに怒ってくれた」


 申し訳なさで目を伏せていた東は顔を上げた。穏やかな微笑みを浮かべた鈴加は、東の服の裾を掴んで「えへへ」と嬉しそうに頬を緩める。


 「実を言うと、はじめから信じてもらえるとは思ってなかったんだ。だから、何か誤解があったんだろうって理事長が言った時、むしろホッとした。内々に処理したいっていうのは同意だし」

 「なぜだ? 君は濡れ布を着せられたんだぞ。うやむやにすれば、心無い連中が君をどう扱うか――」

 「あたしはほんとに分かってほしい人が信じてくれれば、それで十分だよ。それに、もしあたしが理事長の立場だったら同じことをしたかもしれない。私の推測が正しければこれは同一人物による犯行で、あたし以外は狙われないはず。それなのに騒いで、他の女の子達を不安にさせたくないよ。学校に来るのが嫌になっちゃう」

 「君って人はこんな時まで……」


 半ば呆れたように肩を落とした東は、あくまで意志を曲げない鈴加の手を握った。ドキッと心臓が跳ね、トクン、トクンと柔らかな鼓動に変わっていく。互いに触れて体温を分け合えば、とても近い距離にいるのだと意識させられる。


 「君の意見は分かった。それでもやはり、警察に相談すべきだと思う」

 「それは――」

 「周囲の人間を巻き込みたくないから嫌だと、そう言いたいのだろう? だけど僕は反対だ。犯人に心当たりがあるようだが、もし違ったら? それこそ不特定多数の女生徒を危険に晒すことになる。事前にきちんと情報共有されていれば、ある程度の準備は可能だ。危険を知らずに過ごすことが、返って不幸を招く。不安を与えることになっても、皆には事実を知らせた方がいい」

 「う……」


 確かにそうだ――。


 東の主張は的を得ていて、自分の考えがいかに幼いか思い知らされる。余程の事でない限り、徹底的に事なかれ主義を貫いてきた鈴加は耳が痛かった。鈴加の迷いを見抜き、東はここぞと畳み掛ける。


 「君は無実だ。たとえ警察の世話になっても、何も恐れることはない。事実が明らかになるまで君と距離を置く人がいるかもしれないし、根も葉もない噂で君を傷付ける人がいるかもしれない。だけど誰が批判を浴びせようとも、君が他人に危害を加えるような人じゃないって、僕は知ってる。だからこそ、汚いやり方で君の名誉を傷付けた犯人を、僕は決して許さない」

 「東くん……」

 「それに万が一新しい被害が出たら、君はひどく自分を責めるだろう」


 君の悲しむ顔は見たくないと囁かれ、胸がギュウっと締め付けられた。自分を襲った犯人は彩葉の手下で、今回のことも彩葉自身が仕組んだ罠だろうと告げてしまいたい衝動に駆られた。だけどそれはダメだ。理性を総動員させて誘惑を打ち払い、鈴加は「ありがとう」と声を絞り出す。


 「彩葉さんは皆の人気者だし、仮に事実が明るみになって、あたしの言うことを信じてくれる人が現れたとしても、その声は多数に掻き消されてしまうかもしれない。それでも、1と0は全然違うよ。天と地ほど差があるって思うんだ。どんなに誤解されて周りの人たちに罵られようとも、あたしのことを心配してくれて、無条件で信じてくれて、こうして自分の立場も顧みず駆け付けてくれる人がいる。それが救いになってるし、支えてくれる人達のためにも強くなりたいって思う。だから――」


 数秒間を置き、鈴加はすうっと息を吸い込んだ。


 「あたし、警察に相談するよ」


 ――迷うことはないんだ。


 竦みそうになる己を奮い立たせ、鈴加はしっかりと東を見据えた。鈴加の決意が伝わったのか、東は厳かに首肯する。痛くないよう加減しながら、それでも十分に力強さを感じる程度の力で、鈴加の手を包み込む。


 「君はどんなに辛いことがあっても、現実から目を背けないんだな。そのことを、僕はとても眩しく思う」

 「……っ、買い被りだよ」

 「謙遜するのは君の長所だが、もう少し自己評価を高くしてもいいんじゃないか。少なくとも僕には、出逢った時からずっと――魅力的な女の子だ」

 「!!」


 さらりと付け足された殺し文句に目眩がする。キラキラ輝く笑顔を向けられれば、がっちりホールドされた手を引き抜くこともできない。気恥ずかしさで爆発しそうになったが、愛おしげと表現しても差し支えない眼差しを一身に注がれ、拒む余地はどこにもなかった。


 「大丈夫だ。たとえどんな逆風に見舞われようとも、決して折れない帆を胸に張る限り、光を見失うことはない。ほんの少しずつでも前進し続けることが、確かな未来を形作っていく」

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