第26話 溢れる気持ち


 転んだのが鈴加だと、たった今気付いたらしい東は瞳を見開いた。しかしすぐに気を取り直し、手を差し伸べる。やや遠慮がちにその手を握ると、軽々と立ち上がらせてくれた。


 「ありがと――」


 強く引っ張られた反動でよろめき、東に寄りかかる。慌てて離れようとしたが、東はそれを許さなかった。握ったままの手ごと胸に抱き寄せられ、ドキンと心臓が跳ねる。


 「あ、東くん?」

 「君はほんとうに目が離せないな」


 耳元で囁かれ、言葉に詰まる。ふたりの姿は傘で隠れているものの、傍目には抱き合っているように見えなくもない。鈴加が緊張で固まったのを察して、東はそっと離れた。


 「どこか座れる場所に行こう。傷を手当てしないと」

 「え、でも東くん授業なんじゃ」

 「図書館に用があったから早めに出たんだ。問題ない。それより、それじゃまともに歩けないだろう? 靴を買ってくるよ。今は――すまない、少しだけ耐えてくれ」


 突然、ふわりと体が軽くなった。腰に回された東の腕が支えになり、楽に歩き出せた。まるで恋人同士が寄り添い合う体勢で、身近に感じる東の体温にくらくらした。


 「あ、あたし一人で歩けるよ?」


 登下校中の大学生で溢れ返っている道で、すれ違う女の子達がうらやましそうに様子を窺っている。転んで汚れた姿のみっともない自分といれば、東に恥をかかせてしまう。少しでも距離を取ろうと身じろぎしたが、東の腕は微動だにしなかった。むしろ、いっそう力強さが増す。


 「周りがどう思おうと関係ない。僕にとっては、君の安全が最優先だ」


 前を向いたまま告げた東は冷静で、浮ついた気持ちの自分が恥ずかしくなる。結局、屋根の下にベンチのある公園に移動するまで、東は鈴加を離さなかった。転ばないようゆっくりと座らせた後、「すぐに戻る」と雨の中駆け出して行った。





 ほどなくして東が戻ると、お礼を伝えるよりも早く目の前で膝をつき、傷を手当てしてくれた。長身の彼と並んで歩いていた時には気付けなかったが、肩が濡れている。軒下に移動するまでの間、鈴加の方に傘を傾けてくれていたのだろう。東らしい優しさだ。しかし、鈴加はしょんぼり項垂れた。


 「ごめんなさい。あたしのせいでまた迷惑かけちゃった」

 「迷惑だなんて思ってないよ。むしろ君が困っている時、タイミングよく居合わせることができて幸運だった」


 さらりと答えた東の言葉に深い意味はないのだろう。それでも、ストレートな物言いに慣れない鈴加は照れくさくて黙り込む。東は買ったばかりの靴を袋から取り出すと、鈴加に履かせようとした。汚れた足に触れられるなんてとんでもない! 


 「あ、あたし自分で履けるからっ」


 強引に靴を横取りし、自分で履き替えようと前かがみになった。その時、足首に鈍い痛みが走る。東に悟られないよう声を我慢したものの、靴を取り返されてしまう。有無を言わさない雰囲気を醸し出され、鈴加は苦笑いした。


 ――この人はちゃんとあたしを見てくれてるから、誤魔化せないなあ……。


 諦めて足を出せば、きれいな指が触れ、胸がキュウッとなった。東が俯くと、長い睫毛が頬に影を落とす。こうして跪く絵は、王子様そのものだ。


 ――それに比べてあたしは、ほんとにダメな子だ。


 つい、ネガティブな言葉が頭に浮かんで掻き消した。不安な顔をすれば、東に心配をかけてしまう。これまで散々情けない姿を晒したのだから、今更取り繕ったところで大した差もないのだが、できるだけ前向きに――東にふさわしい女の子になりたかった。


 「わざわざ買ってきてくれてありがとう。靴の代金、渡すね」

 「僕が勝手にしたことだから気にしなくていいよ」

 「そんな! 無料ただで受け取れないよ。それでなくても助けてもらってばかりなのに」

 「ほんとうにかまわないのに」

 「気持ちは嬉しいけど、それとこれとは別だから」


 はっきり告げると、東は少し驚いたようだった。が、すぐに頬を緩めて笑った。鈴加が不思議に思って首を傾げると、


 「君がこれまでどんな人と出逢い、過ごしてきたのか、僕は知らない。だけど君と初めて話をした時、あまり自分に自信が持ててないことは気付いたよ。怯えるような目をしていたからね。それに比べて今の君はずっと生き生きしてる。何か――変わるきっかけがあったのかな?」

 「……! 東くん、鋭いね。あたしがこれまで自信を持てなかったのは、自分を好きになれなかったからだと思う。だけど今は、ほんの少しずつだけど、色々なことを前向きに考えられるようになったんだ。きっかけをくれた人には、とっても感謝してる」


 面と向かって口にする勇気はないが、東と出逢わなければ、変わりたいと思わなかったかもしれない。弓弦と再会した時は、変身プロジェクトなんてと腰が引けたのが本音だ。早紀に励まされ、千晴に背中を押され、今の自分がいる。大好きなN様まで応援してくれてるなんて、信じられないくらい恵まれていると思う。


 「――妬けるな」

 「へっ?」

 「いや、なんでもない」


 東の碧い双眸は、曇り空でも翳りなく澄んでいる。その中に秘められた熱を感じて、鈴加はどうしていいか分からず視線を外した。じっと見つめ合っていたら、瞳に吸い込まれてしまいそうだ。二人の間に沈黙が訪れ、片膝をついていた東は立ち上がり、鈴加の隣に腰かけた。


 「これ、よかったら使って」


 差し出されたハンカチはきちんとアイロンがかけられていて、使うのがもったいなかった。やんわり押し返し、「大丈夫! あたしバカだから風邪ひかないよ~」と笑って力こぶを作る仕草をする。東はやれやれと息を吐いたが、呆れてはいなかった。優しく髪を拭かれ、心地良さに体が震えた。相手との距離感を上手く掴めずにいるのは、恋愛経験が少ないからだろうか。ちょっと優しくされただけで舞い上がってしまう。身の程を弁えずに、勘違いしそうになる。


 「夢みたい。東くんがこうして側にいてくれる時間はいつ消えちゃってもおかしくないんだって言い聞かせてないと……あたしどんどん贅沢になってく」


 好きな人が自分を好きになってくれる確率なんて、奇跡に近い。それは鈴加には縁のない、未知の世界だ。期待した分だけ失望するのが怖いから、何重にも予防線を張っておく。鈴加は無意識にそれが染みついていた。


 「夢じゃないよ。僕はここにいる」


 沈んだ気持ちを引き上げるように、東は微笑んだ。それは春の暖かな陽射しのようで、鈴加はどうしてか、急に泣きたくなった。それを不安がっていると勘違いした東は、ふっと真剣な表情に変わる。


 「勝手に消えたりしない――と言っても、簡単に信じてもらえないかな。どうすれば君を安心させられるだろう。何か、目に見える約束ができればいいのだが……」


 腕を組み少し考えた後、東は鈴加に向き直った。まっすぐな瞳を前に、自然と背筋が伸びる。手を出してほしいと頼まれ、言われるとおりにした。子供が指切りをする形で、互いの小指を絡ませる。


 「君が助けを必要とする時、いつもその場にいるとは限らない。だけど君が望むなら、どこにいても、必ず駆け付けると誓う。どんなに遠く離れてたって、飛んでいく」

 「東くん――……」


 約束だ、と指切りをした。東は嘘を吐くような人じゃないから、助けを求めれば本当に応えてくれるだろう。実際にお願いするかは別として、とても心強かった。何より、離れていても気にかけてくれる人がいることが嬉しかった。


 『ねえ、鈴加。人はね、ひとりでいるからって欠けてるわけじゃないのよ。ただ、心を通じ合わせる人がいると、心はね、ふたりでひとつになるの。渇きも潤いも、両方共有することになる。それを幸せに感じられたなら、その人はきっと、あなたにとって大切な人』


 幼い頃、春子に言い聞かせられた記憶が蘇り、鈴加の胸に焼き付いた。誰かを特別に想うと、相手にも同じように想ってほしいという欲が出てしまう。それが怖くて、なかなか前に踏み出せずにいた。手を伸ばして背中を向けられたら、心が千切れるように痛むことを知っていたからだ。だが、失うくらいなら初めからいらないと心に蓋をしても、溢れ出してしまったら――――行き場のない気持ちを抑える術はなかった。


 「あのね、あたし――」


 東に想いを伝えたい――。かっこいい告白じゃなくたっていい。この人はきっと笑わずに最後まで聞いてくれる……そう確信した瞬間、スマホが鳴った。長い着信だ。遠慮せず出るよう促され、鈴加は申し訳なさそうに応答した。 


 「千晴? ごめん、今ちょっと――」

 「鈴加、今どこにいるの!? 一人!?」

 「大学の近くだよ。友達と一緒。どうしたの?」

 「はあ、無事でよかった……! すぐ学校へ来て。あんた、大変なことになってる!」

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