第23話 告げない想い ☆Side大神弓弦
「弓弦様、少しお休みになられた方が……」
「かまわん。それより、委託調査の件はどうなってる? 業者に欧州企業向けのアンケート案を送るよう依頼していたが」
「それでしたら先ほど接到しました。取り急ぎ内容を確認し、翻訳ミスを修正済みです」
「助かる。念のため修正版を共有してくれ。こちらの趣旨が反映されているか見たい」
「かしこまりました」
PM20:30、六本木@OOGAMI本社ビル。仕事のメールを確認していた弓弦は、秘書――榊さかきに手渡された書類に目を通した。個人用執務室の内装は北欧スタイルで、センスよくまとめられている。従業員の多くが帰宅し、社内は静かなものだった。静寂を破ったのは着信。弓弦が携帯に手を伸ばすと、側に控えていた榊は小さくため息を零す。
「また例のお嬢様ですか」
「ああ」
お嬢様、というのは鈴加のことだ。榊は詳しい事情を聞かされていないが、弓弦が鈴加のために時間を割いていることは把握している。そして、鈴加から頻繁に連絡があることを快く思っていない。側で仕える者としては、世界に名を馳せる大企業の御曹司が、家庭教師のまねごとをしていることが気に喰わないのだ。
「先日はご自宅に招かれ直々にご指導なさったとか。寝る間もないお忙しい身で、どうして弓弦様がそこまで――」
「なんだと!?」
「はっ?」
「書類審査が通ったそうだ! 次は面接――って、来週かよ!? おい
「あいにく来週は米粒ほども時間に余裕がございません」
「クソ! ああーーー対策が間に合わねえ……! いや、もっと睡眠時間を削れば」
ブツブツ言いながらスケジュール帳を捲る弓弦に業を煮やし、榊は声を張り上げた。
「お言葉ですが!」
「うおっ!? なんだ急に怒って」
「最近の弓弦様はおかしいです! 執務を終えられたと思ったらすぐにお出かけになって、明け方に帰宅されることも少なくありません。移動の間に仮眠をとられ、食事もままならず……このままでは健康に支障をきたしてしまいます。どうかご自愛下さいますよう」
キラリと眼鏡の奥の瞳が光り、弓弦はごくりと生唾を飲んだ。普段は冷静な男なのだが、ごく稀にこうして爆発する。そしてこんな時は頑として譲らない。それを十分に知っていて、弓弦は素直に謝罪した。
「すまん! あと少しの間だけ目を瞑ってくれ」
「弓弦様!」
「親父との約束通り、大学を卒業するまでの四年間は家業を手伝う。お前のように有能な秘書までつけてもらって文句なしだ。実際、期待以上の働きをしてもらって感謝してる。不要な心配をかけたくないとも思ってる。だが俺の方も譲れない。分かってくれとまでは言わん。見逃してくれ」
「見逃すって……。はあ、もう……」
やれやれと肩を落とし、榊は窓の外を見た。高層階でガラス張りのオフィスからは都内の夜景が見渡せる。OOGAMI本社ビルはランドマークにされるほど有名で、六本木の中でも最高の立地だ。
「ところで、彼女はご存知なのでしょうね? 貴方がされていることを」
「…………」
弓弦はやみくもにエントリーシートを送っていた鈴加を止め、条件に合いそうな会社をピックアップし、応募するよう進言した。水面下ではコネをフル活用し、応募を後押しした――OOGAMIと縁の深い企業の人事担当者に事前にアポを取り、自ら足を運んで何度も頭を下げ、一度会ってほしいと頼み込んで回った。
「まさか、何も伝えていないのですか? ここまでして! 貴方という人は……」
「呆れたか?」
「呆れを通り越して不憫ですよ。本当に、なぜ貴方がそうまでして彼女のために身を粉にしなければならないのです。弱味でも握られているのですか?」
「そうじゃない。これは俺の勝手な自己満足だから、あいつは関係ねーよ」
深く椅子に腰かけ、背もたれに体重を預ける弓弦。その手にはスマホが握られており、鈴加への返信を打っているところだ。どんなに難しい仕事を振られようが、淡々と涼しい顔でやってのけるこの男が、女性へのメールひとつで真剣に悩んでいる。榊の疑問は口をついて出た。
「……彼女を好いておられるのですか?」
「ブッ!! なんでそーなる。あのチンチクリンとどーにかなりたいとか、そんなことは微塵も思っちゃいねーよ」
「では、なぜ構うのです」
「あいつは昔っから泣き虫で。人前に立たされるとオドオドして、いじめられてもやり返さねえし、見ててイラつくんだよ。美人でもなけりゃ貧乳で、バカで、お人好しで、どうしようもないアホだ」
「ええと、話が見えないのですが」
悪口のオンパレードに戸惑っていると、弓弦は複雑な面持ちに変わる。
「もう、あいつの泣き顔だけは見たくないんだ。目の前で泣かれると、頭の中が真っ白になって、どうしていいか分からなくなる。子供の頃から、ただ側にいて泣き止むのを待つことしかできなかった。それでもあいつはひとしきり泣いた後、最後は必ず笑うんだ。『一緒にいてくれてありがとう』って。何もしてない俺に、嬉しそうに」
忘れもしない、鈴加の泣き顔。そして輝くような笑顔を。10年経っても色褪せない記憶が、昨日のように蘇り瞼を閉じた。
「あいつの笑顔を見る度、ひどく無力で情けない自分が、ほんの少しだけ誇らしかった。大神家に生まれてから、何か失敗しても周りの人間はたいてい笑って許してくれて、それをどうこう思ったことはなかったが、あの時、俺は初めて誰かに本物の笑顔を――心を寄せてもらえた気がした。あの笑顔を見て、曇らせたくないと願った。いつもあいつが笑っていられるように、守ってやりたいと思った」
「……!」
「それはもう叶わない。俺は裏切ったんだ。ずたずたに傷付けた。だからもう、あいつの側にいる資格はない。だが、せめてあの笑顔だけは取り戻したい。そのために再会した」
三年半、秘書として側にいて――初めて見る切なげな表情に胸が詰まる。社長の息子として紹介された日から、頭の切れる弓弦はスポンジのように知識を吸収し、あっという間に仕事を覚えていった。他人を惹きつけてやまない天賦の才能に恵まれながら、どこか冷めていて周囲と一線を引いている、そんな印象だったのだ。
「正直、驚きました。貴方にも、心を傾ける特別な方がいらっしゃるとは……」
「はは、なんだそれ。お前、俺をロボットか何かだと思ってないか?」
昔から器用で、たいていのことは何でもできた。欲しいと思ったものは、何でも手に入った。だけど鈴加のことだけは思い通りにならない。告白された時、これからも友達でいようと言われ、咄嗟に嘘を吐くことができなかった。得意の嘘で、そうだねと笑ってやれば傷付けずに済んだのに。どうしてもそれが許せなかったのは、意地だった。鈴加にだけは偽りたくなかったのだ。――彼女を想う気持ちを。
「もし、彼女が他の誰かのものになっても、貴方はそれでいいんですか?」
「重要なのはあいつが笑顔でいられるかだ。隣に誰がいても関係ない。これから前向きに生きていけるよう、自信をつける手伝いをすること。俺にしてやれるのはそれだけだ。あと数か月、めいっぱいしごいてやるさ」
早紀に変身させられた鈴加は綺麗になった。本人には調子に乗るなと釘を刺したが、待ち合わせ場所で彼女を見つけた瞬間、見惚れた。周囲の男の視線を惹きながら、全く気付かず自分をのんびり待っている鈴加に。
――じろじろ見てんじゃねぇよ。
悪態を吐くと同時に芽生えた独占欲を、急いで掻き消した。余計なことは考えるな。お前の目的は何だ? 鈴加の笑顔を取り戻すことだろう。だったら揺らぐな。たとえその笑顔が、他の誰かに向けられるものであったとしても。
「来週火曜の午後――K社のレセプションを早めに切り上げれば、少しだけ時間を作れます。配車時間をこちらで調整しても?」
思案から引き戻され、弓弦は弾けるように顔を上げた。完全にビジネスモードの口調に戻った榊の提案は、遠まわしに鈴加と会う時間を融通するものだった。それは簡単ではない。
「助かるが、できるのか?」
「私はかのOOGAMIグループ本社、代表取締役補佐ですよ」
「……恩に着る」
「御意に」
(私にできるのはこの程度……、しかし貴方が彼女の笑顔を願うように、貴方自身の幸せを望む人間もいるのですよ、弓弦様)
恭しく一礼し、退室した榊の心の声は、言葉にならぬまま夜闇に溶けていった。
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