第21話 君のためにできること
「いや、なんでもない。それより――やはり、僕には相談できないか?」
東が意図していることが図書館での一件だということは、彼の気遣わしげな声色が物語っている。鈴加は息を呑み、東の真剣な眼差しを遮るように視線を外した。
「……ごめんなさい。助けてもらっておいて、隠し事ばっかりだね。東くんが余計に心配すること分かってるのに、話さないあたしはずるいと思う」
「責めるつもりはないんだ。もし僕に話しにくいなら、誰か信頼のできる大人に相談を勧める。君の力になれないのはとても悔しいが、君の安全には代えられない。無事でいてくれればそれでいい。だから一人で抱え込むのはやめてくれ」
子供に言い聞かせるような物言いがほんの少し気恥ずかしい。できるだけ言い訳がましくならないよう、やんわりと否定する。
「抱え込んでるつもりはないんだけど……」
「君を大切に想う人達のためにどうか、思い直してほしい」
ぴしゃりと念押しされ、鈴加は黙った。
「出逢って間もない男におせっかいを焼かれるのは不愉快かもしれないが――」
「あ、ううん! そんなふうに言われたの初めてで、ちょっとびっくりしちゃっただけ」
慌ててフォローすると、東は心なしかホッとした。彼に気遣ってもらえるような人間じゃないことに胸がチクリと痛んだが、鈴加は穏やかな微笑みを返した。
「部長~、いつまで話してるんですか~!」
からかいのこもった部員の呼びかけに応え、東は「今行く!」と部員達の元へ駆けて行った。
♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢
「お疲れさま! 柔道の練習、みんな一生懸命でかっこよかったなぁ」
「ありがとう。大会前で気合が入ってるんだろう。僕も気を引き締めなければ」
部活後、鈴加は私服に着替えた東と合流した。しばらく他愛ない会話を続けながら、頭の中では本題を切り出すタイミングを図る。「話がしたい」と頼んで待たせてもらったのだから、自分から振らなければと気合を入れた。
「それで、あの、話……なんだけど。東くん、あたしね、ずっと『ありがとう』を伝えたかったんだ」
「え?」
「あたし、大学に入る前から人付き合いが苦手で、唯一仲良しの子にべったりだったの。取り柄がないからずっと自分に自信が持てなくて、嫌なことをされてもそれは仕方ないことなんだって思い込んでた。戦わないのが楽だから、相手の言いなりなりになってた。だけどもうやめる。そう決心するきっかけをくれたのは東くんなんだ」
突然こんなことを言ったら困惑させるかもしれない。緊張で震える手を腰の後ろに組んで隠し、東を見上げた。やはり驚いたのか、東は澄んだ瞳をやや見開いている。だけど足を止め、静かに続きを待ってくれている。
「東くんがただそこにいる、いてくれるって思うだけで、頑張ろうって気持ちになれる。勇気が湧いてくるんだ。だからね、『あたしの力になりたい』っていうのは、もう十分叶ってるんだよ」
君を守りたいと言ってくれたその言葉に、どれほど救われただろう? 自分のことを心から気にかけてくれるひとがいる、それはどんなに幸せで、恵まれていることだろう。まだ付き合いの短い東は、鈴加のことをほとんど知らない。それでも一生懸命、助けようとしてくれているのだ。だけど――
「あたしが抱えてる問題は、自分の力で解決しなきゃいけないことだと思う。だから東くんに頼るのは気が引けるのが正直な気持ち。だけど守りたいと思ってくれたのは、すごく、すごく――嬉しかった。ありがとうなんて言葉だけじゃ言い表せないくらい、幸せな気持ちになれた。いつかこの幸せを東くんに返したい。返せるような人に、なりたいんだ」
「高橋さん……」
――ちゃんと伝えられた!
瞳を見て、まっすぐに想いを伝えられた。それは小さな、他人からみれば取るに足りない一歩だったが、人と向き合うことを恐れていた鈴加には大きな意味のある前進だった。すうっと息を吸い、深呼吸する。
「もし、あたしがちゃんと問題を解決して、胸を張って東くんの隣に並べる日がきたら、その時は……と、友達になってもらえると嬉しいです。だからこれは、未来のあたしから東くんへのお願いです。あたしと友達になって下さい」
勇気を振り絞り、東に握手を求めた。その手は情けなく震えていたが、東は笑わなかった。どこか考え込むような様子だったが、ふっと表情を緩め、鈴加に優しい眼差しを向けた。
「……君はほんとうに、予想の斜め上をいく」
「え?」
「守ってほしいと頼まれても、『守らないで』と懇願されたのは初めてだ。おまけに、ずいぶん欲のないことを言う。ただそこにいるだけでいい、なんて。君自身、追い詰められているはずなのに、どうしてそんなふうに笑っていられる?」
「それは、東くんがここにいるからだよ。嬉しいから、笑顔になっちゃうんだ」
えへへ、と照れ隠しで頭を掻く。東は微かに頬を染め、それを誤魔化すようにコホンと咳払いした。
「謙虚で控えめなところは君の美点だと思う。きっと相手が君でなければ、素直に感心したかもしれない。だけど、どうしてだろうな……」
「うん?」
「君に欲張りになってほしい。思い切りわがままを言って、頼ってほしい、という気持ちになる。同時に、君を困らせたくない反面、焦らせて、少しの間だけ僕のことだけを考えてくれたら――そんな身勝手な想いが湧き上がる」
東自身、戸惑っている。それは鈴加の目にも明らかだった。だがそれ以上に動揺したのは、異性に、しかもこんなに素敵な男性に「頼ってほしい」などと甘やかされるのは初めてで、くすぐったい気持ちで爆発しそうになったからだ。
「僕は君を知りたい。君の側にいたい。だが……君の申し出には、応えられない」
「……っ!」
もしかしたら東に受け入れてもらえるかもしれない――そんな期待が膨らんだ矢先、希望は粉々に打ち砕かれた。申し訳なさそうな東を前に、鈴加は今にも泣きそうになる。じんわりと涙で視界が滲み、それを悟られたくなくて、一歩、二歩と後ずさりする。
「ごめんなさい。あたしみたいな子にこんなこと言われても困っちゃうよね。図々しいことお願いして、ほんとにごめんなさい」
「いや、そういう意味じゃ――――待ってくれ!」
回れ右した鈴加の腕を素早く掴み、東は振り向かせた。頰が涙に濡れていたので、思わずドキリとして手を離しそうにしなる。だが、瞬時にそれを思い留まった。今この手を離せば、二度と掴めない――そんな恐怖に駆られた。
「は、離して。こんな顔、見られたくない……!」
羞恥でカッと体が熱くなる。別れ際に惨めな姿を晒すのは何より心苦しかった。だが東の手を振り解こうとした次の瞬間、グイっと引き寄せられ、そのまま――彼の腕の中に閉じ込められた。
壊れやすい宝物に触れるような手は、とても温かい。それはまるで長年凍ったままの氷をゆっくりと溶かす太陽のようで、鈴加は声を失った。痛くないよう慎重に加減された――それでいて、逃すまいと必死の力で抱き締められれば、自然と涙が引いていく。
「ごめん。誤解させた。……君と友達になりたくないんじゃないんだ。僕も君と同じ気持ちだよ。ただ――君と共にありたいと思う、だからこそ待てない。輝ける未来の中に素晴らしい君がいたとしても、僕は今、目の前で必死に変わろうともがいている君の側にいたいから」
「……っ」
不確かな未来より、たとえ厳しくとも、現実いまを共に過ごし、障害を乗り越えたいと――東はそう告げた。返事のできない鈴加を少しだけ胸から離し、顔を見合わせる。そして未だ腫れの引かない彼女の頬に手を重ね、見えない傷を癒やすように、そうっと表面をなぞった。
「僕が側にいるからといって、いつも君を笑顔にできるとは限らない。日々を生きていれば、楽しいことばかりじゃなく、辛い出来事が降りかかってくるだろう。もちろん、成長するために必要な痛みもある。だが、君が受け止めようとしているのは、耐える必要のない痛みじゃないのか? それでも懸命に向き合おうとするから、目が離せないんだ」
「あ、東く――」
「できるなら、可能な限り不要な苦しみや悲しみから君を遠ざけたい。僕の強さを認めてくれるなら、正しいことのために力を使えというなら――」
側にいて見届けてほしい――。東の懇願する声は、誰も触れたことのない、無防備な、心のいちばん柔らかい場所に染みていった。
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