第18話 彼女の涙と後悔と ☆Side東亮太

 『あっもしもし亮太~? 元気にしてる? 来週からパパとママと二週間くらいスウェーデンに帰るんだけど、ほしいお土産とかある?』


 ――霞ヶ関。オフィス街を歩いていた東が着信に気付き電話に出ると、朗らかな声がした。久しぶりに姉からの連絡だった。


 「いや、特にないよ。気を付けて行ってきて。父さんと母さんによろしく」

 『もー、あんたいっつもそれなんだから。ほんと末っ子らしくないわねぇ。たまにはわがまま言ってくれなきゃ、姉さんの立場がないじゃない』

 「ごめん」

 『素で謝らないでよ。っていうか元気ない? 何かあったの? あ~、もしかして好きな子に振られたとか?』


 無意識に息を詰まらせ、東は沈黙した。『嫌ッ!!』――鈴加と最後に会った日、思い切り手を振り払われたことが鮮明に蘇り、胸の奥が軋む。すると、勘の鋭い女は信じられないといった様子で話を続ける。


 『ちょ、マジで!? 亮太を振るなんてどんなハイスペック女よ! もしかして社会人? 年上のバリキャリとか?』

 「いや、そういうわけでは」


 東が専ら気にかけている女の子――高橋鈴加は、どこにでもいるごく普通の女子大生だ。学校では派手なグループに属しているが、それはコンプレックスの裏返しだと彼女は言った。そして東は、初対面で外見から受けるイメージよりもずっと彼女が控えめで優しいこと、いざとなれば鋼のような意志の強さで向き合えることを、この短い期間ではあるが知ったのだ。


 『亮太、今どこ?』


 思案に耽っていた東は姉の声で我に返る。危うく人の流れに逆行しそうになっていて、邪魔にならない歩道の端に寄る。


 「霞ヶ関。今度面接があって、その下見に来てる」

 『じゃ、後で合流しようよ。私、銀座にいるから。場所はLINEで送るね、って涼太のID知らないわ。教えてくれる?』

 「LINEはしてないから普通にメールで送ってくれ」

 『はあああ!? あ、まあ亮太ならありえるか……OK、じゃあ後で』


 通話が終わり、スマホをポケットにしまう。本格的な夏を前に、太陽の光が苛烈さを帯びてきた。額にうっすら滲む汗を拭い、東は駅に向かって歩き出した。



 ♢♢♢ ♢♢♢ 



 「ねぇ、見てあれ。何あの超美形カップル。かなり目立ってない?」

 「んー、顔似てるし兄弟かもよ。顔小さっ、おまけに足長~。外人はスタイル良くていいよねぇ」


 ほう、と感嘆のため息を漏らし、ランチ中の女性客二人は東姉弟を見つめた。ふと姉の方と目が合い、北欧の女神ばりに麗しい笑顔を返され、慌てて目の前の皿に視線を落とす。他方、熱視線に無頓着――もとい鈍感な東はウェイターに手渡されたメニューに集中していた。


 「亮太の好きなの頼んでいいよ。ここは私が持つから」


 ありがとう、と亮太が頷く。学生には敷居の高い店だ。休日のランチコースは、最も安価なもので2500円から。東の両親は十分に裕福だが、極力仕送りを控えてもらい、アルバイトをして一人暮らしをしている。普段は自炊が多く、友人と出かけてもこんな風に洒落た高級レストランには入る機会がない。


 絶妙なタイミングで現れたウェイターに注文を終えると、間もなくドリンクがサーブされた。窓の外は銀座の街並みが広がり、道路沿いに植えられた木々が涼しげに揺れている。


 「で、どうしたの? 暗いオーラ出して。亮太は何かあっても他人の前で顔に出さないけど、さすがに家族はごまかせないよ」

 「……どうしても分からないことがあるんだ」

 「私でよかったら聞くわ」

 「実はこの前――」


 東は鈴加と会ってからのことをかいつまんで説明した。話の合間に手際よく料理が運ばれ、前菜、メインディッシュ、デザートと進む。静かに相槌を打っていた姉は、話の終盤で瞠目する。長い睫毛を瞬かせ、もう一度確かめるように復唱した。


 「彼女が泣いた?」

 「ああ。最後に図書館で別れた時、彼女――高橋さんは泣いていた。あれは何の涙だったのか、僕には分からない。男に襲われそうになったのだから、当然、怯えて泣いてもおかしくないが、僕の手を振り解いた時にはそんな雰囲気じゃなかった。どこか思い詰めた感じで、引き留められなかった」


 亮太ほどの美形――顔よし、性格よし、マッチョではないが鍛え上げられた無駄のない肢体、完璧にレディーファーストを叩き込まれた好青年を突き放すとは、一体どういう心境か。まさか女を泣かせるような真似をするはずがないことは明白、だからこそ突然涙を流したという鈴加の気持ちが分からず、姉は「うーん」と首を傾げた。


 「イイ男に守りたいって言われて嫌な気持ちになる女はそうそういないと思うけど。全然気のない相手なら、『あんたに守られる筋合いないわ』って感じだけどねー。変に彼氏気取りされるの嫌だし。でも亮太のことだから、純粋な厚意で申し出たんでしょ?」

 「もちろんだ。しかし……特別親しくもない男性に護衛されるなど、やはり迷惑だったのだろうか」

 「んー、手持ちの情報が少なすぎて断定しがたいわね。だけど嫌われてないのは確かよ」

 「ホントか!?」


 声が上ずり、亮太は微かに頬を染めた。ピアノの生演奏が流れる落ち着いた店内で、大声で喋る客はいない。姉は穏やかに目許を細め、「本当よ」と付け加えた。自覚しているかは別として、涼太がこんなふうに誰かを――女の子を特別に気にかけることは初めてだった。


 「それにしても、今どき珍しくいじらしい子ねえ。『あなたを危険に巻き込みたくないから放っておいて』なんて。庇護欲くすぐられる気持ちちょっと分かるわ」


 ジェラートの上に様々なカットフルーツとバニラシロップが乗せられたデザートをスプーンで掬い、姉はぱくっと食べた。美味しかったのか、幸せそうに頬を緩ませる。その様子を眺め、優しく微笑した亮太の脳裏に鈴加の姿が浮かぶ。


 『だめだよ、東くん。……気持ちは嬉しいけど、あたしなんかに関わったらだめだ。前に痴漢から助けてくれた時は深く考える余裕がなかった。でも今は分かるの。今日だってそう。こんなことを続けていたら、いつか東くんが怪我をする。それは絶対嫌なの』


 自分に自信がないのか、猫背だった彼女。声も小さくて、視線を泳がせたり、隠れようとしたり、小動物を思わせる仕草が印象的だった。しかしあの時は別人のように背筋を伸ばし、強い意志を込めた瞳でまっすぐに見据えてきた。


 『自分のせいで誰かを傷付けるかもしれないって分かってて、助けてほしいなんて言わない。もしそれで何かあったとしても、それはあたしの自己責任だよ。それに、東くんが優しい人だって知ってしまったから、なおさら頼りたくない』


 『あたしみたいな、何の取り柄もない同級生のために身を挺して助けに来てくれる、優しい人。助けを求めればきっと何度でも手を差し伸べてくれる人って分かるから。だからこそ、そんな人を危険な目に遭わせたくない。東くんの強さを疑ってるんじゃないよ? その力は正しいことのために――本当に守るべき人のために使うべきだと思う。だからお願い、もうあたしのことは放っておいて』


 ――――……。本当に守るべき人、か。


 守る人を選ぶ自由をくれと、そう告げた。万一のことがあってもそれは自己責任だと、だから君を守らせてほしいと食い下がった。気のせいかもしれないが、一瞬だけ、彼女の心が揺れた気がした。頷くべきか迷っている――不安と期待が混ざった瞳が瞼に焼き付いている。


 自分は彼女のために何ができるだろう? 力を正しいことのために使えと言った彼女の想いを、どれほど汲み取れているだろう。何が『正しい』のか、答えは簡単に出なかった。それでも、彼女を放っておけなかった。理屈じゃなく、力になりたいと願った。


 「おーい、亮太ー? アイス溶けちゃうよー?」

 「あ……、いただきます」

 「ふふっ」

 「?」

 「いやー、なんかさー、青春っていいなぁと思って。昔っからモテまくりだった亮太が都会に引っ越したらそりゃあもう女の子達が放っとかないだろうに、いつまで経っても女の影がないから心配してたのよ。たまに実家帰ったら父さんと武道の話ばっかしてるし。せっかく綺麗な顔に生んであげたのに~! って母さん嘆いてたわよ」


 咽そうになり、亮太は慌てて水を流し込む。恋愛ごとに興味がなかったわけじゃないが、単純に優先順位が低く、後回しにしていた。目をハートにしてじろじろ見られるのも、追い回されるのも困るし、どちからというと女の子は苦手なぶるいだ。それを見抜かれていたとは、やはり家族は侮れない。


 「それは、なんというか、申し訳ない」

 「いーって。今の話聞いて分かっちゃった。きっとその子に会うために、神様がとっておきの出会いを取っておいてくれたんだなーって」

 「彼女にとって僕との出逢いが悪いものでなければいいが」

 「大丈夫よ。姉バカって言われようが、亮太は自慢の弟。自信を持ってぶつかってきなさい。とりあえず、次に会ったらできるだけ普段通りにね。泣いちゃったなら相手は気まずいだろうし、自然な笑顔で挨拶してあげたら心が軽くなるはずよ」


 人差し指を両方の唇の端に当て、「スマイル」ポーズを作り、亮太に笑顔を促す。ぎこちなく笑った涼太は、どうやらまだ心が痞えているらしい。もう少し元気づけてやるか、と思った姉はピンとアイデアが浮かんだ。「ねぇ、知ってる?」とテーブルに身を乗り出す。


 「日本では、『赤い糸』って言葉があるんですって。運命の人と繋がってるって話よ。本当にそうだったら素敵ね。でも、私思うの。いくら縁があっても、その縁は何もしないでいたら結ばれないんじゃないかって。だからね、喧嘩したり、泣いたり怒ったりしていいのよ。作った自分を愛されたって長続きしないもの。嫌われるのが怖くても、素直な気持ちで向き合いなさい。それで振られても、私はあなたを笑わない」

 「……!」 

 「さあ、食べて食べて! 絶品デザートよ。食べたらきっと元気になるわ」


 にっこり笑い、食後のアイスティーにミルクを注ぐ姉を前に、亮太は肩の荷が降りたような気がした。


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