第5話 現実では脇役です

 遅刻した鈴加が講義室に滑り込んだのは、授業が終わる10分前だった。今更参加しても出席点はもらえないだろうが、もしかしたらレジュメの余りをゲットできるかもしれない――試験対策の必須アイテムを得るため、こっそりと後ろの扉から入室する。


 どこに座ろうと辺りを見回すと、混雑してはいるもののいくつか空席があった。胸を撫で下ろし、適当に選んだ席へ向かう。隣にいた青年に軽く会釈して着席した鈴加は、不意に顔を上げた彼と目が合い、危うく椅子から転げ落ちそうになった。


 「きゅ、救世主様っ!?」


 驚愕のあまり叫んだ直後、講義室全員の視線が集中し、その中にアゲハ蝶――しかも底意地の悪い笑みを浮かべている――がいて、たちまち心が萎れていく。極めつけに、今朝痴漢から救出してくれた青年が顔色ひとつ変えず視線を逸らしたことで、更に気持ちが沈んでいった。


 「そこ、静かに!」

 「す、すみません……」


 教授に注意され謝罪すると、クスクス笑いがさざ波のように広がる。今日は厄日だ……。猫背になれば、いっそう陰鬱な気分になっていく。鈴加は、青年に気付いてもらえず落胆している自分に驚いていた。あんな超美形がモブキャラを記憶してるはずないし、そもそも助けてくれたこと自体が奇跡だったのに。


 「君、この問題を訳しなさい。遅れて入ってきた、あー、……」


 特徴のない人間を指名するのは、これほど難しいのか。思案から引き戻された鈴加は苦笑し、ホワイトボードの問題を読む。そして腹痛をもよおした。英語が理解不能な鈴加にとって、第二言語で選択したフランス語は宇宙語に等しい。


 「どうした、分からないのか?」


 公衆の面前で恥をかかされ、のろい頭の回転が一段とスロースピードになる。遅刻したからといって公開処刑とは鬼畜の所業だと悶絶するも、悪いのは自分だ。きちんと予習していれば――猛省したところで、後悔先に立たず。


 「あの、」すみませんが分かりません――そう答える直前、手元にノートが置かれた。開いたページの一部を、しなやかな指が軽く叩いている。隣にいた青年が、前を向いたまま、ごく自然に助け船を出してくれていた。


 「おーい。まだかー? 昼休みになるぞー」

 「あ、は、はいっ! そこは……」


 青年が示した箇所を読み上げる間、妙に声が上ずってしまった。正解だったのか、教授はちょっと意表を突かれて瞠目し、よろしいと教材を閉じる。終業の合図だ。



 *



 休憩時間で講義室が騒がしくなると、青年は手早く荷物をまとめた。隙のない横顔は氷の彫刻のようで、お礼を言うために呼び止めようか葛藤していると、誰かに肩を叩かれる。


 「高橋さん、ちょっといい? あなた、あずまさんと知り合いなの?」

 「え?」

 「さっき変なこと叫んでたじゃない。救世主様、だったかしら」


 いつのまにか彩葉の親衛隊に取り囲まれた鈴加は、ピンチに陥っていた。抜け駆けは万死に値する――と言わんばかりに詰め寄られ、厳しい口調であれこれ文句を並べられる。しかし、神経は別なところに傾いていた。東くんっていうんだ……思いがけず救世主様の名前を知った鈴加は、「ちょっと、どこ行くの!?」と捲し立てる親衛隊を振りほどき、輪の外へ飛び出す。そして――


 「あ、東くん!!」


 大声で呼び止めてしまったことを神速で悔やんだ。背後を確認せずとも親衛隊の怨念オーラがびしびし伝わってくる。今ならまだ、何でもないですごめんなさいと誤魔化せるかもしれない。そしたらきっとお咎めも軽く済む。そんな誘惑が脳裏を掠め、鈴加は震える唇を噛み締めた。


 ――二度も助けてもらったのに、お礼を言わないなんて、どうしようもないバカだ。


 東は静かに鈴加を見つめていた。ありがとうと言わなくちゃ、そう思うのに言葉が出ない。緊張で心臓は破裂寸前、追い詰められた鈴加は酸欠で視界が真っ白になっていく。


 「危ない!」


 女子達の甲高い声がして、よろめいた鈴加は事態を把握するのが遅れた。倒れこみそうになった体は、駆け付けた東に支えられていたのだ。抱き合う体勢になり、反射的に距離をとろうとするが、掴まれた腕は大して強く掴まれていないのにビクともしなかった。


 「……怪我はない?」


 労るような声色に、喉の奥が熱くなる。見上げると、先ほどの無関心な様子から一変して、痴漢から助けてくれた時と同じ、とても真摯な眼差しが注がれていた。彼が自分を覚えてくれているのではないかと錯覚してしまいそうなくらい、優しい表情だった。


 「高橋さん、ご無事ですの!?」


 密着する二人の間に素早く割り込んだのは、親衛隊の群れから飛び出した彩葉だ。鈴加は腕に巻きつかれ、吐き気がした。彩葉は絶対に鈴加の心配なんかしない。ただ、東の前で友人を案ずる心優しい天使を印象付けたいだけなのだ。


 「無理しないで、わたくしに寄り掛かってちょうだい」


 暗に「いつまでくっついてんだよ、このドブス!」と牽制されているのだが、鈴加は簡単に引き下がらなかった。どうしても東にお礼を伝えたかった。彼には絶対見えない位置でこっそり腕をつねられてもだ。


 「えっと、君は……」

 「西園寺さいおんじ、と申します」

 「そう。僕は、」

 「もちろん存じ上げておりますわ! 東様はわたくし共の憧れですもの」


 魅惑的な笑顔が炸裂し、鈴加はついに折れた。彩葉の決めポーズならぬ瞬殺スマイルをまともに喰らって落ちなかった男子はいない。しかも、微妙に鈴加の斜め後ろに立っているあたりが小顔効果狙いでかなりあざとい。


 「ありがとう。でもごめん。今は、できれば二人で話したいんだ」

 「まあ、喜んで!」


 ああ、やっぱり――。勝ち誇って胸を張る彩葉の側で、鈴加は脇役を痛感した。現実世界でお嬢様に勝てる脇役なんているわけないんだ。お礼を伝えたくとも、それさえ叶わない。三次元の男子と関わると必ず惨めで辛くなる。


 諦めて、彩葉が東に近付くのを傍観した。だが、彼は彩葉ではなく――なぜか、鈴加の手を握った。

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