第35話 『好き』という気持ち
異動が翌月に迫った、とある平日の終業後――――
会議室で三好を待つ朱里は緊張していた。告白の返事をこれ以上先延ばしにできないと考え、社内メールで呼び出したのだ。察しのいい三好のことだ、用件は思い当たっているはずだろう。
どんな言い方にせよ、三好の明るく人懐っこい笑顔を曇らせる結果になることに心が沈んだ。だけど勇気を出して伝えてくれた想いに報いたい。朱里は気を取り直して背筋を伸ばした。
数分して、コンコンとドアをノックする音がして心臓が跳ねた。
「悪い、待たせたか?」
「ううん、大丈夫! 残業抜け出してくれたんだよね。ごめん」
「いーよとっくに定時過ぎてるし。雪村こそ最近特に忙しそうじゃん」
「色々やることが多くて」
朱里は入室した三好に座るよう促し、机を挟んで向かい合った。平静を装っていても表情は硬くなる。朱里の纏う張り詰めた空気を感じ取り、三好はリラックスさせようと微笑んだ。
「そんな緊張すんなよ。告白の件で話があるんだろ? まぁ、言われなくても雪村の気持ちは分かってるから」
「え……」
「好きなんだろ、九条さんが。見てれば分かる」
朱里は瞠目した。そして次の瞬間、三好の意図に気付いた。呼び出しに応じたのは、朱里の気持ちを確かめるためじゃない。朱里が三好に自分の気持ちを伝える機会をくれたのだ。それも、朱里の代わりに、聞くのが堪える話を三好の方から切り出してくれた。
三好は黙って朱里の反応を待っている。優しい眼差しで見守ってくれている。朱里は自分のことで精一杯だったことが恥ずかしくてたまらなくなった。
「ごめん!!」
朱里は両膝に手を置き、勢いよく頭を下げた。
「返事が遅くなって本当にごめん。三好に告白された時、急がないって言われて甘えてた。三好を傷付けるのが嫌で、先延ばしにしてた。あの時には自分の気持ち、誰に向いてるか分かってたのに――待たせて、応えられなくて……ごめんなさい」
小刻みに肩が震えた。なじられても仕方がない。覚悟して固く拳を握り締めたのに――頭上から降ってきた三好の声色は柔らかかった。
「ふ、おっかしーの。なんでお前が落ち込むんだよ。振られたのは俺なんだけど?」
「自分が情けなくて」
きっと三好は自分の何倍も緊張していたはずだ。苦しくて、胸が痛いはずなのに、三好はそんなことは微塵も態度に出さないで、責める様子もなく、それどころか気遣ってくれる。
「……三好は今日、わたしのために来てくれたんだね。ありがとう」
三好の想いが身に染みて、視界が滲んだ。だけど今、三好の前で涙を流すことはできないし、したくない。顔を上げ、瞳を潤ませながらも気丈に三好を見つめ返す朱里に、三好は苦笑した。
「俺が好きなのは結局、そういうところなんだよね」
「え?」
「普通は好きじゃないやつに告白されたら、なんて断ろうとか、ぶっちゃけめんどくさかったりするじゃん。でも雪村は俺の気持ちになって考えて、胸を痛めて、そんな顔してくれるんだもんな。……うん。やっぱり俺の目に狂いはなかった。雪村を好きになってよかった」
澄んだ青空のように晴れやかな三好の笑顔に、朱里は息を呑んだ。僅かな沈黙の後、躊躇いがちに口を開く。
「あのね、三好の気持ちを聞いた時はびっくりして伝えられなかったけど、嬉しかったんだ。だからもし迷惑でなければこれからも今まで通り接してほしい。勝手なこと言ってるのは分かってる。それでも三好と話せなくなるのは寂しいよ」
朱里は胸に手を当て、懐かしい記憶に思いを馳せた。
「覚えてる? フォローアップ調査が決まった時、三好がファイルの場所とか色々教えてくれたこと。すごく分かりやすく整理されてて助かったんだ。作業の流れを書いたメモは、わたしのために後から作ってくれたんだよね? あれだけ日付けが新しかったからすぐ気付いたよ」
三好はさっと視線を逸らした。当時は調査に向けて頑張る朱里を応援する気持ちで、できることをしただけだ。そんなささやかな気遣いを汲み取ってくれた朱里に、正面から指摘され、感謝されるというのは気恥ずかしい。
「バレたか。変なところ鋭いな」
「それだけじゃないよ。わたしが落ち込んでるとき、さり気なくフォローしてくれたり笑わせてくれたりして何度も助けてもらった。三好はわたしの力になりたい、笑顔にしたいと思ってくれたんだよね? 『相手を幸せにしたい』、人を好きになるってそういうことだと思うから」
嬉しそうにはにかんだ朱里の、花が綻ぶような笑顔に、三好は釘付けになった。桜が散ってもなお桃色の花びらで地面を覆い尽くし、美しいと心を奪うように――朱里の笑顔も、声も、言葉も、全てが色鮮やかに焼き付いていく。
「……うん、それで合ってるよ。つーか雪村、お前、ほんと」
優しすぎでしょ、と呟いた三好の声は朱里の耳に届かなかった。困ったように笑う三好にかける言葉が見つからなくて、迷った末、朱里は話題を変えた。
「実はもうひとつ話したいことがあるんだ。わたし異動するの」
「異動? もうそんな時期か。で、いつ頃?」
「来月」
「!? すぐじゃん! 雪村はそれでいいのか? つってもまぁ、異動自体は避けられないとして九条さんはどうすんだよ。このまま離れて後悔しない? 俺が言うのもなんだけど、告白しないの?」
朱里はギクリとした。九条と付き合っていることは、朱里の希望で公にしていない。知っているのは宇佐美だけだ。だけど三好には正直に話しても言いふらすような真似はしない――確信を持って、朱里は打ち明ける決意をした。
「えーと……信じられないかもしれないけど、実はもう付き合ってたりして」
「へー、そうなん……って、えええぇえええ!!??」
三好は仰天して椅子の背にもたれ、「マジか」と両腕を組む。
「いつのまにそんな展開になったんだよ! 九条さん、全然態度変わってないから気付かなかった。やっぱ食えねーなぁ、あの人」
「あ、あはは」
爽やか王子は腹黒ですから、と朱里は内心冷や汗をかいた。他方、三好は最近朱里が輝いているのは九条の影響なのだと思い当たり、すとんと腑に落ちた。あぁ、なんだそういうことか――悔しいけれど完敗だ。
「よかったじゃん。やっぱ雪村は笑ってるのが一番だ。落ち込んで、元気がないと調子狂うんだよな」
三好の慈しみのこもった眼差しを受け止めて、朱里は体中に温もりが広がった。誰かを大切に思う気持ちはよく知っていて、それが自分に向けられているというのは純粋に嬉しい。
「同期のほうが話しやすいこともあるだろうし、なんかあれば気軽に相談しろよ。俺はこれからも雪村の味方だからな」
「……! うん。ありがとう。心強いよ」
「よっし。じゃーそろそろ行くか。俺ちょっと飲み物買うわ。先戻ってて」
「わかった」
朱里は会議室を出る前に振り向き、「お疲れ様」と小さく手を振って笑顔を見せた。三好は静かに閉まったドアを見つめ、俯き、ひと息吐く。両頬を軽く叩いて立ち上がり、その足で休憩スペースに向かった。
どうやら他に人はいないようだ。気が抜けて、設置されている自販機の前で本音が漏れた。
「くっそ可愛いな。なんださっきの笑顔。ただの同僚にあれなら九条相手だとどんなだよ。はーもう……禿げろ九条!」
「珍しく荒れてますね。お疲れですか?」
「!? 宇佐美さん」
ひょっこり背後から顔を出した宇佐美に三好は後ずさった。苛立ちもあり、近付いてきた人の気配に全く気付かなかった。気まずさMAXで口元を手で覆う。
「うわー、だせぇとこ見られちまったな。この時間まで残ってるの珍しいね」
「大きな会議を控えてるのでロジ対応です。ちょっと休憩しようかなーと思って来ました。よかったら奢りますよ。今日は特別です」
しれっと自販機に小銭を投入する宇佐美は詮索してこない。朱里と親しい彼女がどこまで事情を知ってるのか分からないが、何も聞かないでくれるのは正直ありがたかった。
「さすが雪村想いの後輩。優しーね」
「恥ずかしい台詞禁止です!」
びしぃっと人差し指を鼻先に突きつけてきた宇佐美の顔は明らかに照れていた。三好は素直じゃないなぁと笑いを噛み殺しつつ、差し出された缶コーヒーを受け取った。窓越しに煌めく夜景が、いつもより眩い気がした。
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