第34話 うさみんの事情聴取SP


 九条と想いが通じ合ってから、見慣れたはずの景色にさえ心躍り、太陽の光を一層眩しく、温かく感じる。もっと大げさに言うなら、世界が自分に優しくなった気さえする。


 月曜の朝、保留にしていた異動の件を正式に受けたいと神野に報告し、いよいよ引継ぎに向けた準備が始まった。精力的に業務に取り組み、バタバタしている間に三週間ほど経過したある昼下がり――。


 会議に出席していた朱里が部室に戻り、離席中の電話メモに目を通していると、九条が声をかけてきた。


 「雪村さん。お手数ですが、先ほどの会議の議事録、作成をお願いできますか」

 「はい! そのつもりでメモ取りしたので大丈夫です」

 「助かります。では後ほどデータを送って下さい」

 「わかりました」


 (電話は急ぎ折り返しが必要じゃなさそうだし、記憶が新しいうちに議事録起案しちゃおう)


 腕まくりをし、さっそく作業を始めるためにファイルを開くと、横からさり気なく缶コーヒーがデスクに置かれた。贈り主である九条はもうパソコンに視線を戻していて、キーボードを叩いている。


 「……! これ――」


 お礼を告げようとした朱里を横目に、微笑した唇に人差し指を当て、黙っているよう促す九条の眼差しが優しい。胸がキュンと高鳴って、慌ててパソコンの画面に向き直った。九条と恋人になってから、職場での態度は変わらないが、時々こうして差し入れするなど、気に掛けてもらっている。その少しの公私混同が嬉しい。


 緩みそうになる頬を引き締めていると、背後から両肩を叩かれた。


 「せーんぱいっ! 会議が長引いてお昼食べてないですよね? 私も午前外勤でまだなんですよ。ご一緒しません?」

 「うさみん! えーと……」


 朱里がチラッと九条の様子を窺うと、視線を捉えた九条は爽やかな笑みを返した。


 「先ほどの作業依頼でしたら特に急ぎませんし、大丈夫ですよ。ゆっくりどうぞ」

 「ありがとうございます! じゃさっそく行こっか」 


 元気よく席を立った朱里の隣で澄ました営業スマイルを浮かべていた宇佐美は、一歩オフィスの外へ出ると途端にニヤニヤし始めた。怪訝そうに眉間に皺を寄せた朱里が下から覗き込む。


 「あのさ、さっきから気になってたんだけどなんでうさみんニヤついてるの?」

 「先輩こそ、毎週恒例のサザエさん症候群はどうしたんですか? 月曜なんて目の下真っ黒にしてゾンビ化してたくせに、このところお肌ピッチピチですよね~? 幸せオーラ撒き散らしてるの気付いてます~?」

 「え!? わたしそんな浮かれてる!?」


 ヒッと短い悲鳴をあげて両頬を掴んだ朱里の間抜けな表情に、宇佐美は呆れた。


 「やっぱり無自覚でしたか。あのですねぇ、私がどんなに注意しても万年干物女だった先輩が急に身を構い出したら『何かありました』って宣言してるようなものですよ! ここ最近特に忙しそうだったんで遠慮してましたけど、今日こそ吐かせますから!」

 「!!! まさかこれって事情聴取!? あの、わたしちょっと急ぎの仕事思い出したかも、なんて」

 「今更逃げられると思わないで下さいよ。ほら、観念しろぉっ!」


 思いきり腕に抱き着かれ、がっちりホールドされた朱里は「ギブギブ!」と情けない声をあげた。こうなるともう逃げ場はない。迂闊な自分を反省し、朱里は力なく項垂れた。



* * *



 宇佐美に連行されたレストランは、ロシア料理を提供している女性に人気のお店だ。ランチタイムは近隣のオフィスに勤めるOLやマダムでごった返すが、今日はピークの時間帯を外したおかげかスムーズに席を確保できた。


 宇佐美の勧めで平日限定のランチセットを注文すると、すぐに前菜の盛り合わせとピロシキが運ばれてきた。前菜は彩り豊かで、色々な種類の野菜料理を一口ずつ味わえる。まだ温かいピロシキを頬張ると、中は挽肉とゆで卵が詰まっていた。塩気の少ない優しい味わいだ。


 「さすがうさみんチョイス! 美味しい~! 疲れが吹き飛ぶ~!」

 「ふふっ、お口に合ってよかったです。このあとボルシチとロシアンティーがありますからね。さて、料理もきたところですし本題に入りましょうか。ぶっちゃけ九条さんとどうなってるんですか?」

 「ブフォ! ゴホゴホ! い、いきなりぶっ込んできたね?」

 「回りくどいのは好きじゃないんです。一応、私達ライバルですよね? 何か進展があれば聞く権利あると思いますけど?」


 「で、どうなんですか!」とテーブルに前のめりになる宇佐美の気迫に圧され、朱里はごくプライベートな部分を端折って、九条と付き合うことになったことを報告した。反応が少し怖かったが、意外にも宇佐美はあまり驚かなかった。いわく、なんとなくそうかなと感じる節があったらしい。


 「九条さんはとにかく、先輩は分かりやすすぎです。職場では上司部下の節度を守ってるみたいですけど『恋する乙女顔』までは完封できてませんよ。以後気を付けて下さい」

 「はい……すみません」

 「素直でよろしい! にしても、まさか本当に九条さんを射止めるなんて、先輩すごいじゃないですか。見直しました」

 「射止めたというか逃げる間もなく射られたというか……」


 苦笑した朱里は目の前にボルシチがサーブされ、目を輝かせた。嬉しそうにスープを頬張る朱里を単純だなぁと思いつつ、宇佐美は温かい眼差しを向けた。 


 「どういう心境の変化があったか知りませんけど、迷いは吹っ切れたみたいですね」

 「へ?」

 「私の見当違いかもしれないですけど、先輩、もうすぐ異動するんじゃないんですか? 前に二人で飲んだ時、それらしい話してましたよね。まだ内々の打診だったからかお茶濁してましたけど、木山くんへの指導も熱心だし、なんとなく事情察しました」


 宇佐美が真顔になって、朱里は口を噤んだ。本来であれば辞令が交付されるまで、異動の件を口外することは好ましくない。だけどもう人事に話は通っているし、宇佐美は信頼できる相手だ。伝えてもかまわないだろう。


 「ごめん、正式に決まるまではと思って言えなかった」


 申し訳なさそうに眉尻を下げ、朱里は肩をすくめた。宇佐美はサラリと笑みを浮かべる。


 「いいですよ。辞令出るまで黙ってるのは普通ですから。九条さん大好きなくせに異動断らないあたり真面目というか、ものっっっすごく先輩らしいですね。でも離れるの心配じゃないですか? いきなり遠恋とかハードル高いですよ。九条さん大人気だし。この間も他課の子に食事に誘われてました。卒なく断ってましたけど」

 「それは、不安じゃないって言ったら嘘になるけど――――これから先の未来を思い描いた時、九条さんの隣で肩を並べるわたしを、わたしは誇りに思えるようになりたいんだ」 


 朱里は食事の手を止め、姿勢を正した。まっすぐ宇佐美を見据え、意を決して口を開く。 


 「たとえお互いを取り巻く環境が変わっても、二人が同じ方向を目指していたら大丈夫じゃないかな。九条さんはそれが分かってて背中を押してくれるんだと思う。だから安心して新しいことにチャレンジできる」

 「へーぇ、さっそく彼氏に影響されてますね。少し前の先輩なら、仕事と恋愛『どちらか選ぶ』ことしか頭になかったのに、今は『どっちも選ぶ』選択肢が出るんですから。あーあー当てられちゃったな~」


 暑くもないのにパタパタと手で顔を仰ぐ宇佐美は完全にからかいモードに入っている。朱里は恥ずかしくてつい否定しそうになったが、この時は気心の知れた女同士ということもあり、素直になれた。


 「確かに九条さんはいつもわたしにない視点をくれるから感謝してる。道標みたいな感じ、かな。恥ずかしいから内緒ね?」


 九条のことを想うと、嬉しくて照れ臭い。そこにいなくても側で見守ってくれているような温かさが心を包んで、自信を持たせてくれる。頬を染めてはにかむ朱里に、宇佐美は小声で呟いた。


 「……なるほど。こんな顔見せられたら九条さんもイチコロだわ」

 「ん? 何か言った?」

 「なんでもないで~す! まったく、食事とは別な理由でお腹いっぱいです。干物をあっちゅーまに鮮魚にするとか、涼しい顔してやりますね、彼」


 ニヤッと口角を上げた宇佐美の表情から、このままではまずい方向に話が飛び火しそうなので朱里は慌てて先手を打った。


 「ごめん、この件は深く追及しない方向で何卒お願いしたく!」

 「はいはい」


 両手を合わせて拝む朱里が必死すぎて、宇佐美は吹き出すのを止められなかった。タイミングよく食後のロシアンティーが運ばれてきて、朱里はほっとした。果肉の大きな苺ジャムを溶かした紅茶は、想像していたよりずっと甘かった。

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