第33話 つながる心
震えるほどの幸福に満たされ、眠りについた翌朝。柔らかなベッドの上で目を覚ました朱里は自宅と違う部屋の様子に一瞬戸惑ったが、九条の家に泊まったのだと腑に落ちた。横たえた体は力が入りにくく、だるさが残っている。九条はまだ夢の中らしい。傍らで眠る彼の姿に安堵して、胸の奥から愛おしさが湧き上がってきた。
普段、他人に隙を見せない九条の寛いだ表情を見ていると、気を許せる特別な存在になれたんじゃないかと期待が膨らむ。だけど実際のところ、九条がどういうつもりだったのかは確信が持てずにいた。これまでの朱里の態度から九条への想いは見透かされているだろうが、相手が九条だけに楽観できない。
朱里は真意を見極めるように九条を観察した。穏やかな呼吸に合わせて胸が微かに上下している。完全に寝入っているかどうかを確認するために手を瞼の上でひらひらさせてみた。反応はなかった。
「昨日はどうしてキスしたんですか。九条さんはわたしのことどう思ってるんですか」
起きていたら聞く勇気のない事を問いかけて、ひとつため息を零した。目の前にいるこの人が余すところなく全部自分のものだったらいいのに、なんて贅沢な想像をした。もし九条が恋人なら、怖がらずに想いを伝えて、遠慮なく触れることができるだろうか。朱里は呪文を唱えるように人差し指でくるりと円を描いた。
「わたしのことを好きになーれ。って、魔法使いじゃあるまいし無理か」
苦笑して、九条の頬に軽く触れるだけのキスをする。体を近付ければ九条の香りと温もりに包まれて、至上の幸せを感じた。昨晩の出来事は勢いだったとか、九条の答えが自分の期待するものと違ったしても、後悔はない。
「九条さん……大好きです」
もう二度とこんな機会はないかもしれない。衝動に駆られるまま九条の上半身に腕を回し、控えめに抱き締めた。こんな風に素直に甘えたいが、素面で、起きている九条を相手には絶対無理だ。
(10秒だけ)
頭の中でカウントを始めて、10秒をやや過ぎたところで離れなければと自分に言い聞かせる。名残惜しさ一杯のまま離れようとしたその時、九条が予想外の動きをした。
「もう終わり?」
物足りなそうに囁かれ、そのままギュッと胸元に抱き込まれた朱里は驚いて心臓が止まりそうになった。
「おっ起きてたんですか!? いつから!!」
「んー。どうしてキスしたんですかあたりから」
「ちょ、それ初めからじゃないすか!! 起きてたなら言って下さいよ! というか今すぐ記憶から抹消して下さい! 恥ずか死ぬ!!」
「やだよ。あんな面白い一人コント聞き逃すわけないだろ。『わたしのこと好きになーれ』とか何言い出すんだと思った。俺を殺す気?」
悩まし気に息を吐いた九条は朱里を抱く腕に力を込め、耳に唇を寄せた。
「……可愛すぎでしょ。100回くらいキスしそうになった」
焦れた甘い声に朱里の頬が煮上がった。密着した体を通じて九条の鼓動が伝わってくる。自分の鼓動の速さとあまり変わらないことに気付いて唐突に気恥ずかしくなり、同時に嬉しくなった。
「わたし都合のいい夢見てるんですかね。ありえない展開続きなので夢オチだって突っ込まれても全然不思議じゃないです。それか九条さんが毒きのこでも食べてわたしが可愛く見える呪いにかかったか」
「ありえる展開だし、毒きのこも食べてないから安心しなよ。勢いじゃなく、俺は自分の意志であんたを選んだんだ」
「えっ今サラッと重要なことを告げられた気がするんですけど!」
九条の胸をめいっぱい押し返して顔を見ると、九条は意外そうに瞬きした。
「何驚いてんの。俺はこれまでもあんたに特別目を掛けてただろ。全然気付かなかったのか?」
「それは……そうかもしれないと思う節はありましたよ。だけどわたし自身に自惚れる要素が皆無でしたし」
「あぁ、なるほど」
「すんなり納得しないで下さいよぉ!!」
女性として自信を持てないのは朱里の都合だが、納得できない。不平不満を込めてポカポカ肩を叩くと、すぐに手首を掴まれてしまった。
「落ち着きなよ。俺はこれまで口に出さなかっただけで、ずいぶん前からあんたに惹かれてた。職場で人間関係に悩みながらも一生懸命仕事に取り組んでる姿はまっすぐで、力になりたいと思ったし、美味そうに飯食ってる時やバカみたいに無防備な寝顔晒してる時は可愛いくて仕方なかった。第一俺は困ってるからって自宅に居候させたり、手料理を振る舞ったり、合鍵を預けるような真似は絶対しない。あんたのためじゃなかったら兄に連絡取らないよ。ありえない」
言葉の続きに期待が高まり、朱里は息を詰めた。緊張で身を固くする朱里にふっと優しい笑みを向けた九条の表情は、柔らかく慈愛に満ちていた。
「好きだよ。あんたと一緒に過ごすうち、いつのまにか目が離せなくなってた。本当は黙って見守るつもりだったけど、もうただの上司には戻れない。簡単に信じられないって言うならもっと教えてやるよ」
疑問に思う間もなく額にキスされて、直後、耳元に囁きが落ちた。
「俺を見つけて走って来る時の笑顔が好きだ。名前を呼ぶ声が好きだ。気持ちだだ漏れのくせに隠そうとしてるところが可愛い」
「!!」
「頭を撫でられて照れ臭そうに赤くなるのが可愛い。キスの後、少し気まずそうに睫毛を伏せる仕草も、昨晩、声を我慢しようとして背中にしがみついてきたところも可愛い。本当……あんたは意地悪して泣かせたくなるな。でもそれ以上にうんと甘やかしたくなる」
チュ、と音を立てながら頬に、唇に、首筋にキスの雨が降ってくる。喉を甘噛みされ、パジャマ代わりに借りたシャツの襟元が開かれていく。九条の指先がつっと胸の膨らみに沿って這っていく。朱里のどんなところが好ましいか、言葉と交互に攻められれば到底勝ち目はない。
「わ、わかりました! 九条さんの気持ちはもう十分わかりましたから!!」
「そう? これからが本番なんだけど」
「勘弁して下さい! わたしの心臓がもちません……!」
やや残念そうな九条の顔を直視できず、たまらず背を向けた朱里の後頭部に顎を乗せ、抱き寄せた九条はクスッと笑った。
「ご理解頂けましたか、姫。続きをご所望であればいつでも期待に応えますよ」
「ふざけないで下さい! もうっ。九条さんはずるいです。色々反則です」
「その『九条さん』っていうのいつまで続く? 二人の時は蓮でいいって昨日言ったの忘れた?」
「おっ覚えてますとも! でもいざ名前で呼ぶとなると心の準備が」
「じゃ今すぐ準備して。朱里の声で俺の名前、聴きたい。それと背中向けてないでいい加減、こっち向きなよ。顔が見たい」
「!!!!」
(ダメだ、何を言ってもカウンター技がレベル高すぎて死ぬ!)
開き直った九条のストレートな愛情表現に悶えまくりの朱里は、胸が温かくなった。そっか、これは夢じゃないんだ。本当に九条さんはわたしのことが好きなんだ。じわじわ実感が湧いてきて、一生分の運を使い果たしたって後悔しないくらい幸せだ。あ、やばい。涙腺が緩む。
「蓮……さん」
観念した朱里はゆっくり振り向き、潤んだ瞳で九条を見上げた。無意識に『大好き』が全開に溢れた表情を前に、九条は黙り込んだ。さっと視線を逸らしたが、その顔は明らかに照れている。
「え。照れる九条さんとかめちゃめちゃレアなんですけど! 蓮さん。蓮さ~ん顔見せて?」
「……っ、あんたわざとやってるだろ」
「こんな機会滅多にないですから当然です!」
ニヤニヤしながら絡んでくる朱里に反撃し、肩を掴んで引き寄せた九条は不意打ちでキスをした。唇を塞がれてしまえば翻弄されるのは一瞬。甘く溶かされた朱里がようやく解放された時には、九条はすっかり涼しい顔に戻っていた。
「いっ今のはずるい!」
「そう簡単に主導権奪わせるか」
「相変わらずの上から目線がむかつくー!」
でも憎めないから悔しい。こそばゆいようなふわふわした感覚に包まれて、今度はどちらともなく顔を近付けた。角度を変えて繰り返される口づけに互いの体温が上がってく。
「もっと朱里に触れたい。離れてても、あんたが誰のものか忘れないよう覚えさせたい。……いい?」
言葉の意味が分からないほど子供じゃない。自分を求める九条の眼差しに燃えるような独占欲が滲む。頬が熱くなるのを止められないまま、九条の肩口に顔を埋めて頷いた。とびきり甘い休日になる予感がした。
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