第36話 魔王、再降臨です
時は更に進み3月――――
朱里は海外事業部プロジェクト統括室での出勤最終日を迎えた。直前まで慌ただしかったのを忘れるくらい、当日は穏やかに過ごすことができた。
かつて山積みのファイルに埋もれていた執務机は見違えるほど綺麗に整頓されている。忙しいのを口実に掃除を疎かにしていたが、これなら後任も気持ちよく使うことができるだろう、と朱里は満足した。
仕事上、世話になった関係者へ一通り挨拶を済ませる頃にはもう夕方で、神野室長に声を掛けられたのは定時直前だった。
「皆、少しいいかな」
席を立ち、周囲の注目を集めた神野に促され、朱里は前に進み出た。部室内の全員が作業の手を止め、腰を上げる。神野は一拍置いて全体を見渡し、柔和な笑みを浮かべた。
「先日社内メールで周知したとおり、本日付で雪村さんは異動します。二年間、国担当として熱心に業務に取り組んでくれた彼女に感謝を送るとともに、今後一層の活躍を祈って激励します。雪村さん、本当にお疲れ様でした。これからも期待してるよ。体に気を付けて頑張ってください」
「ありがとうございます……!」
恐縮して頭を下げた朱里に、神野は花束と色紙を手渡した。可愛いシールが貼られた桜色の色紙は同僚からの寄せ書きだった。空白を惜しむように埋まった文字に胸が熱くなる。
「雪村さんからも一言お願いできるかな」
「はい!」
神野にバトンタッチされ、朱里は姿勢を正した。同僚の皆から向けられる温かい笑顔にこれまでの苦労が吹き飛ぶようだ。
プロジェクト統括室の忙しさは社内で指折りだが、殺伐とした空気はなく、良い緊張感が漂っていた。信頼できる同僚に恵まれ、必要な時には自然とフォローし合える環境だった。風通しのよさは室長である神野の人柄による部分が大きい。
苦楽を共にした仲間達に、朱里は感謝を込めて口を開いた。
「大変なこともありましたが、みなさんのおかげでなんとか乗り越えることができました。ここで一緒に働けたことを誇りに思います。二年間、本当にありがとうございました! 今後ともよろしくお願いします!」
深々と頭を下げる朱里に、拍手が湧いた。何度も会釈しながら机に戻ると、待ち構えていたように四方から人が集まって来た。
「雪村さんお疲れ様ー! 次は海外支部か~、ウチよりハードってことはないだろうからようやく社畜ライフから解放されるね! あ、でも手当つくぶん残業代出ないんだっけ。更なるブラックワールドへの旅立ち、かな?」
「ちょ、めっちゃいい笑顔で不吉な事言わないで下さいよぉ~!」
慄く朱里に同僚達がどっと笑った。そこへ宇佐美と三好、そして香川が顔を出した。
「せーんぱいっ。大人気ですね! 二年間お疲れ様です。これ、私から」
「こっちは俺から。向こう行っても頑張り過ぎるなよー。健康第一でな」
「これは私からです~。二年間お世話になりましたぁー」
「!! うさみん……三好……香川さん……ありがとおぉぉ」
感激しつつ、それぞれからプレゼントを受け取ると、後ろからさらに木山が現れた。この流れで登場するのは意外で、朱里はかなり驚いた。
「どうしたの? 引き継ぎ書で何か分からないことあった?」
「いえ、あの――お話中すみません。実は僕からも渡したいものがあって。大したものじゃないんですけど」
差し出された紙袋を受け取り、中を確認した。なんと、オレンジを基調としたミニブーケだった! 朱里は鋭く息を呑んだ。
「木山くん、これ――」
「趣味じゃなかったらすみません。色々ご指導頂きありがとうございました」
木山は朱里に頭を下げると、くるっと向きを変えて席に戻っていった。ぶっきらぼうな態度は相変わらずだが、そこはかとなく感謝の念を感じる。唖然とする朱里の両肩を、宇佐美と三好がそれぞれ叩いた。
「「青春だな(ですね)~~~」」
「もぉ――――二人ともニヤニヤするのやめてっ!」
「ふ、最終日も賑やかですね」
それまで成り行きを見守っていた九条が息を抜いて笑った。喜びと照れ臭さ、そして、しばらく会社では九条に会えない寂しさが混じって、どんな顔をしていいか分からない。
「九条さん。今日までご指導ありがとうございました」
「こちらこそ雪村さんにはお世話になりました。二年間お疲れさま」
労いを込めた眼差しに、胸が苦しくなる。上司としての九条には感謝してもし尽くせない。伝えたい想いはとめどなく溢れてくるのに、言葉にならない。うっかり涙腺が緩みそうになったが、どうにか堪えて、代わりに笑顔を送った。
和やかな場に漂うしんみりした空気を変えたのは、パンと手を叩いた宇佐美だった。
「いい機会ですし皆で写真撮りませんか? 私カメラ持って来たんですよ! じゃ~ん!」
「いいですね。では僕が――」
「何言ってるんですか! 九条さんは雪村さんの隣です! ほら、もっと寄って下さい!」
宇佐美の掛け声で、朱里を中心に人が集まっていく。木山も半ば強制的に引き込まれ、ずいぶん賑やかな撮影になった。その後、流れでちゃっかり九条とのツーショットまで撮ってもらった。朱里にだけこっそり目配せした宇佐美の心遣いに感謝し、朱里は小さく両手を顔の前で合わせた。
* * *
「それじゃ、雪村さんの今後の活躍を願って……乾杯!」
「「乾杯――――――!!!」」
同日夜、会社から徒歩圏内の居酒屋で朱里の送迎会が行われた。宇佐美が気を利かせて座敷部屋を貸し切ったため、周囲の客を気にせず和気あいあいと楽しむことができた。次々運ばれる美味しい食事と大量の酒に皆のテンションがぐいぐい上がっていく。
「ほらほら、雪村さん主役なんだから遠慮せず飲んで~!」
「あ、わたしはもう――」
「まぁそう言わずに!」
「じゃ、じゃあもう一杯だけ頂きます」
入れ替わりで人が来ては酒を勧められ、朱里は限界に近付いていた。が、体質的に酔っても顔に出ないため断りにくい。まぁたまには飲み過ぎても大丈夫かな、と不安を隠してグラスを傾けた時――見かねた九条に制止された。
「飲み過ぎですよ。皆さん、あまり彼女に無理をさせないで下さい。雪村さんも押しに弱過ぎです。酒量を弁えて自重するように」
「す、すみません!」
両成敗され、慌てて謝罪しつつ、朱里は胸を撫で下ろした。助けてもらえたのは正直ありがたかった。
「九条さん面倒見いいですよね~。やっぱり直属の部下は可愛いもんですか? 雪村さん役得!」
「あははははは」
一部始終を見ていた同僚に突っ込まれ、反応に困った朱里は曖昧に笑った。自分の送迎会にたくさんの人が参加してくれるのは嬉しいが、短時間で人が入れ替わるとさすがに気疲れする。でも今は九条が隣に居る分、だいぶ気楽だ。朱里が肩の力を抜いた途端、思わぬピンチが降りかかった。
「あの、前から気になってたんですけど九条さんはお付き合いされてる方がいるんですか?」
「あーーーそれ私も聞きたいです!!」
同じテーブルを囲んでいた女性社員達が食い気味でテーブルに身を乗り出した。朱里は九条と話し合い、恋人であることは公にしない方向でお願いした手前、ドキドキしつつ九条の反応を窺う。
「いますよ」
あっさり肯定し、一瞬だけ朱里に視線を寄越した九条は爽やかな笑みを浮かべた。女性社員達はかなり落胆したが、好奇心が勝ったのか瞳を輝かせた。
「やっぱり恋人がいるんですね! まぁ九条さんほど素敵でしたら当然ですよね~。ちなみに、どんな人なのか教えてもらってもいいですか?」
「そうですね……面白い人です。側にいると楽しくて、気付いたら笑ってます」
「やだ~! ベタ惚れじゃないですかー! 彼女さんいいなー!」
「ゲホゲホ!!」
朱里が激しくむせると、九条は心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 顔が赤いですよ」
「ダイジョブです。の、飲み過ぎちゃって」
(酔っても顔に出ないの知ってるくせに……この確信犯!!)
久々の魔王モード発動に、すっかり耐性が薄れていた朱里はモロにダメージを食らった。幸い(?)朱里が挙動不審なのは通常運転なので、周りには怪しまれずに済んだ。が、さらなる爆弾が投下されることは予測できなかった。
「あの~、もしよかったら彼女さんの写メ見せてもらいませんか?」
追及が危険水域に達してさらにゴホッとむせた。しかし九条はこの状況を楽しんでいるのか平然と笑っている。
「写真をご覧になる必要はありませんよ。皆さんご存じの方ですから」
「えっ!?」
一同の目が零れんばかりに丸くなる。
(!!! ま、まずい展開)
もはや緊急事態と判断し、朱里は「ちょっとお手洗いに……」と席を立って戦線離脱しようとした。が、無情にも九条がそれを阻んだ。がっちり腕を掴まれた朱里は、とても嫌な予感がして九条の顔を見た。久々に目が潰れそうなキラッキラの王子スマイルが炸裂した。
「どこへ行くんですか。貴女の話をしているんですよ」
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