第31話 隠せない気持ち
「異動の件、キャリアを考えれば喜ばしい話だけど、あんたの百面相も見納めかと思うと惜しいな」
「え?」
「雪村は俺が出会った人の中で一番面白いよ。見てて飽きないし、隣にいて居心地がよかった。外面でも素でもあんたは態度を変えないから」
「それは当然ですよ。だってどちらも九条さんですから」
何気なく答えた朱里に瞼を瞬かせ、九条は微笑んだ。
「そう言えるあんたは大物だよ」
「? どこがです?」
「分からなくていい」
首を傾げる朱里の頭に疑問符が浮かぶ。しかし待っても九条の答えは得られそうになかったので、その後は他愛ない話に花を咲かせた。
食後、洗い物を済ませた朱里はパウダールームで化粧を直した。何度もすっぴんを見られているのだから今更なんだって話だが、気持ちの問題である。髪も手ぐしで整えてリビングへ戻ると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻先を掠めた。
「コーヒー淹れたからあんたも飲めば」
「いつのまに! ありがとうございます」
いそいそカップを受け取り、朱里はソファに座った。相変わらずちょうどいい弾力で長時間座りたくなるなぁ、と思っていると膝にブランケットを掛けられた。同時に九条が隣に腰を沈める。
「暖房かかってるけど一応」
「!! お、お気遣い痛み入ります……」
普段会社ではパンツスーツしか着ない朱里は今日、珍しくスカートを履いている。シンプルなネイビーのニットトップスにペールオレンジのフレアースカートを合わせたコーデは一晩悩んで決めた。居候の時はジャージのような私服で済ませていたため、こんな風にちょっぴりデート仕様の服を着るのはかなり久しぶりだ。会った瞬間何も言われなかったからてっきり気付かなかったと思ったのに……と少し気恥ずかしくなった。
「あんたがそういう格好してるの珍しい」
「たったまにはわたしだってこのくらい着ますよ」
「ふーん」
頭の先からつま先まで九条の視線が走るのを感じる。朱里はいたたまれなくなってクッションを盾にしたが、あっという間に回収されてしまった。遮るものがない状態で二人の距離が近付き、鼓動が跳ね上がる。
「か、返して下さい!」
「なんで隠すわけ」
「だって……っ」
「せっかく似合ってるんだから堂々としなよ。勿体ない」
「!!!! ず、ずるいですよ九条さん」
「何が?」
ニッと唇の端を上げた九条は蠱惑的だ。口ごもった朱里が大人しく従うと、満足したのかテレビに向き直った。それからしばらく会話がなかったが、不思議と気詰まりじゃなかった。パズルのピースがぴったり合うような心地よさが漂い、九条が隣にいるだけで安心できた。
朱里はこっそり九条の綺麗な横顔を盗み見る。出会ってから今日までに色々な事があった。公私ともに様々な葛藤があった。だからこそ、九条と過ごす温かい時間が身に染みる。九条の笑顔が、よく通る涼やかな声が、温もりが鮮やかに焼き付いて離れない。
自分がいなくなった後、九条はこんな風に誰かを家に招いて、優しい笑顔を向けるのだろうか。頭を撫で、胸に抱き寄せたりするのだろうか。
嫌だ。
「あぁ、もうこんな時間か。そろそろ帰った方がいいな。送ってく」
立ち上がった九条の服の袖を掴んだのは無意識だった。指先で引っ張られた九条がやや驚いて振り向くと、朱里は俯いていた。
「もう少しだけ……」
瞼の奥が熱くなるのと、瞳が潤むのとどちらが先だったか。鼻腔がツンとしてひどく胸が掻き乱された。顔も名前も知らない誰かに嫉妬するなんてどうかしてる。頭で分かっていても心が追いつかない。
「雪村? どうした」
異変を感じ取った九条の優しい声が耳朶を打つ。床に片膝を着いて視線を合わせられると、咳を切ったように涙が溢れた。次から次へと頬を伝い流れ落ちていく。
「すみません。九条さんと過ごす時間があんまり心地よくて。ずっと続けばいいのに、なんて考えちゃって。バカみたいですよね。そんなの……ありえないのに……」
手で顔を拭うと、マスカラがついた。せっかくのメイクが台無しだ。こんな筈じゃなかった。ただ笑って楽しいひとときを過ごせればよかった。困らせたくなんてない。だけどもう抑えられない。
「お願いします。あと5分だけ……側にいさせて下さい」
九条は瞠目し、切なげに眉を寄せた。詰めていた息を吐き、首の後ろに手を回す。朱里を見下ろす九条の瞳に肉食獣を思わせる獰猛な光が宿った。
「本当に……迂闊だよね、あんたは」
「え……」
見上げてドキッとした。出張中の甘い「お仕置き」とは比べものにならない、剥き出しの色香を放つ九条に、朱里は身じろいだ。しかし九条は微かに笑みを浮かべ、朱里を逃がすまいとソファの背に手を着く。
「何驚いた顔してるの? また言い逃げするつもり?」
「……っ!」
「さっきの台詞は俺の都合良く解釈する。……文句があるなら抵抗しなよ」
空いた手で顎をすくわれた朱里はカッと顔に熱が集中した。心臓の高鳴りが最高潮に達して痛いくらい胸の内を叩いている。ゆっくりと、意思を確認するように近付いた九条の顔には見たこともない情欲が灯っている。
これは夢?
現実とは思えない浮遊感の中、恐る恐る九条の胸に手を置く。瞼を閉じた瞬間、唇が重なった。
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