第25話 臆病な眠り姫



 無事に物件の下見を終え、一週間が経過した。九条と匠の助言に耳を傾けて決めた新しい物件は、現在の自宅から徒歩15分ほどの場所にあるマンションの一室だ。最寄り駅を変えなかった理由は通勤に便利だからだが、それだけでなく、九条との接点を減らしたくなかったというのもある。


 朱里が選んだのは人気の物件で、本来すぐにでも埋まる部屋だったが、匠の口利きで押さえてもらえることになり、感謝した。あとは引っ越し資金を貯めるだけだ。幸い九条の厚意で家賃が浮いており、間もなく訪れる給料日の振り込みを足せば目処が立ちそうだ。


 以降、休日は自宅に戻り、ぼちぼち荷物の整理を始めた。この機会に不要な物を処分してしまおうと考え、長年袖を通していない古着を捨て、読み飽きた本は売却用にまとめるなど精力的に片付けた。散らかっていた部屋が片付いていくと引っ越しの実感が湧くもので、あんなに居るのが不安だった家も、いざ出るとなると寂しい。新卒で入社して以来住んできた家なのだから、多少愛着がある。


 給料日を経て、朱里は複数の引っ越し業者に見積もり作成を依頼し、最安だった業者と契約した。するとすぐさま大量の段ボールが送られてきて、元々狭い部屋の中が箱だらけになって呻いた。引っ越しは想像以上にエネルギーがいる……。平日で疲れた体に鞭打ち、土日は荷造りに没頭した。そうして迎えた居候最終日(金曜夜)――――



 「ただいま」

 「おかえりなさい! 思ったより早かったですね」


 玄関で靴を脱ぐ九条の元へパタパタ駆け寄った朱里を一瞥し、九条は硬直した。エプロン姿の朱里を見るのは同居生活開始以来、初の出来事だ。これまで炊事は主に九条がこなし、朱里は簡単なサポートと後片付けに徹していた。九条の眉間に微かに皺が寄ったので、胸中を察した朱里は苦笑する。


 「やだなー、心配しなくてもキッチンは無事ですよ! さすがにわたしでも鍋は爆発させません」

 「ほんとかよ」


 半信半疑といった様子で九条が部屋に上がる。九条が着替えて手洗いを済ませる間にテーブルセッティングを完了させようと、朱里は慌ただしくキッチンとダイニングを往復した。今夜は鍋である。具材をぶち込むだけの超お手軽料理だが、今回は料理サイトを参考に初心者でも美味しく作れるレシピを採用した。普段なら確実に省く下ごしらえの工程を丁寧にこなした結果、時間はかかったが我ながら納得の鍋が完成したと思う。


 鼻歌交じりに鍋掴みをはめようとした朱里を、着替えを済ませた九条が遮った。


 「貸して。俺が運ぶ」

 「! いいですよ、これくらいわたしが……」


 食い下がるも時すでに遅し。ひょいと鍋を掴んでダイニングテーブルに運ばれてしまい、恐縮しつつ朱里は九条の背中を追った。


 鍋からほわんと湯気が立ち上り、出汁の香りが部屋に広がる。数種のきのこ、野菜、豆腐、肉だんご、うどんが入った鍋を二人で囲み、「いただきます」と手のひらを合わせた。九条が時計を見遣ると、既に21時を回っていた。


 「引っ越しの準備で疲れてるだろうから家事は無理するな。それに腹減っただろ。俺を待たず先に食べればよかったのに」

 「いやいや、最後くらいちゃんとさせて下さいよ! この一か月、九条さんに頼りっぱなしだったじゃないですか。だから今夜はわたしが夕食を用意するって決めてたんです」


 さぁさぁどうぞと景気よく勧められ、九条は礼を伝えつつ箸を持ち上げた。内心ドキドキしながら反応を待つ。ぱくっと一口味見した九条は驚きの表情を浮かべた。


 「……うまい。出汁の味が染みてる。こんな肉だんごスーパーにあったっけ」

 「ふっふ~ん、その肉だんごはわたしの手作りです!」

 「へぇ、あんたの? やるじゃん」

 「そうでしょう! 鶏ひき肉に刻んだ玉ねぎとしそを練り込んであるんですよ。鶏むね肉は高たんぱく低カロリー食材で疲労回復効果が抜群! しそで後味スッキリ! ってレシピに書いてました」

 「ドヤ顔で種明かししつつ、自分の総手柄にしないところがあんたらしいな」


 九条が素で笑ったので、嬉しくなった。残業を早々に切り上げて帰宅し、買い出しと調理をした甲斐があった。朱里は九条のように要領よく料理できないが、きちんと手順を踏めばなんとか人並みのものはできる。


 「あんたに手料理を振る舞ってもらう日が来るとはね。予想外だった」


 九条がしみじみ呟く。朱里はおたまで豆腐をすくい、自分の食器に移した。


 「にしても、九条さんは料理上手でびっくりしました。将来いい旦那さんになれますよ」

 「大げさ。俺くらいは普通だろ」

 「いやいや、貴重ですよ料理上手な男性! 需要ありまくりですよ。むしろ供給がおいついてないので世の男性陣に布教して下さい九条飯」


 鼻息荒く力説して、また笑われてしまった。――よかった。しんみりした雰囲気は苦手だ。


 九条が帰って来て、彼の気配がするこの家に居ると絶大な安心感があり、正直出て行くのが名残惜しい。だけど何のメリットもない九条にとっては負担でしかない。このちょっと不思議な同居生活に居心地の良さを感じていたのは朱里だけだったろうが、それでも、会社では見られない九条の一面を知ることができて嬉しかった。


 他愛ない会話の中でいつものように軽口を叩きつつ、食事は和やかに終わった。食後、後片付けを申し出た九条に甘えて先に風呂を済ませ、リビングのソファでテレビを眺める。だんだん眠くなってうとうとし始めると、肩にブランケットがかけられた。


 「こんなとこで寝ると風邪引くよ」

 「ふぁ? ありがとうございます」


 隣に座った九条の重みでソファが沈む。半身に感じる九条の気配がくすぐったかった。朱里は瞼をこすり、九条の方へ向き直った。


 「パジャマ姿ですみませんが、約一か月もの間居候させて頂き感謝してます」

 「新しい物件決まってよかったな。これで安心して眠れるだろ」

 「はい。匠さんにはくれぐれもよろしくお伝え下さい。九条さん、いいお兄さん持ってますね。羨ましいです」

 「まぁたまには役に立たないこともない」

 「ふふっ、だめですよ。ひねくれた言い方しても。実際頼りにしてますよね?」


 無言を肯定と受け取り、朱里は微笑んだ。九条は何食わぬ顔をしているが、内心苦虫を噛み潰すような思いでいるに違いない。まったく、素直じゃないなぁ。指摘すると機嫌が悪くなるので口には出さず、朱里はソファの背もたれに体重を預けた。


 「わたし情けないなぁ。九条さんには恰好悪いところばかり見られてますよね」

 「そんな風に思ってないけど」

 「気休めはいいですよ。体力と根性には自信ありますって豪語しといて会社で倒れて、ホントお恥ずかしい限りです。体調管理に関して何度も忠告されてたのに意地張って……。今後は早めに対処するようにします。申し訳ありませんでした」

 「反省したならよし」


 項垂れた朱里の頭の上に九条の手がのり、柔らかく撫でた。不意に与えられた温もりに想いが高まる。しかし朱里は努めて平静を装い、おちゃらけてみせた。


 「しばらくは九条飯が恋しくなりそうです! 明日の朝、鍵返しますね。本当に助かりました」

 「気が向いたらまた飯食わせてやるよ」

 「へ? いや、居候を解消したらここに来る理由がなくなります」


 痒くもない頬を掻くと、九条は唇の端を上げた。


 「じゃ、いつもの間抜け面見せに来るってことで。あんたの百面相見てると毒気抜かれるんだよ。笑わせてくれた分、うまい飯出してやる」 


 王子モードでは絶対に見せない笑顔に、胸の奥がキュウっと締まった。優しくされると危うく勘違いしそうになって困る。期待がむくむく膨らんで、好きだと告げてしまいそうになる。だけどもし想いを知られたらきっともうこんな無防備な笑顔は見せてくれなくなる。


 宇佐美のように美人なら自信をもって告白できた? いや、外見以前の問題だ。朱里は恋愛に関して殊更臆病なのだ。一度親密な関係になっても、相手の気持ちが離れてしまえば簡単に壊れてしまう。目が合わなくなる、名前を呼ばれなくなる、触れられなくなる……完全に他人になる。それは相手の温もりを知ってしまった後だと一層辛いことを、過去の少ない恋愛経験から学んでいる。


 「……九条さん」

 「ん?」

 「もしこの先九条さんが助けを必要としたら、わたしを思い出して下さいね。匠さんみたいに頼りにはならないでしょうけど、精一杯力になります。どこへいても飛んでいきます」


 ちゃんとうまく笑えただろうか。分からないけど、きっと、これが正解の距離感だ。九条は少しの間沈黙し、微笑した。


 「わかった。ありがとう」

 「はい! あの、まだしばらく起きてたいので、ここに居てもいいですか?」

 「もちろん」


 当然のように肯定されてホッとした。少しでも長く九条と共に過ごしたかった。

 九条の気配に安心して、再び睡魔が襲ってきた。


 会話が途切れ、しばらくして肩に重みを感じた九条は、朱里が頭をもたれさせていると気付いた。すぅすぅ気持ちよさそうに寝息を立てる朱里には警戒心の欠片もない。信頼しきった態度にため息を零し、九条は朱里を起こさないようそっと腰を上げた。そしていつかのように彼女を横抱きにし、なるべく振動を与えないよう寝室へ運ぶ。


 朱里をベッドの上に寝かせ、羽毛布団を被せる。リビングへ戻ろうとした時、


 「九条さん……大好き……」


 囁く声がして、思わず目を瞠ってその場に踏みとどまった。完全に寝入った朱里は無邪気な寝顔で、仰向けのまま両手を顔の横に投げ出している。まるで子供のようだ。


 九条は片手をベッドに着き、身を屈めた。そして――軽く唇に触れるだけのキスを落とす。柔らかな唇の感触が胸の奥にちいさな疼きをもたらしたが、理性がそれを抑えた。額にかかっていた髪を指先で優しく払ってやると、無意識の中、朱里は幸せそうな笑みを湛えた。その表情が胸を温かくする。彼女はするりと、ごく自然に心に入り込んでくる。


 「……迂闊なあんたにお仕置きだ」


 囁く声色は、台詞に反して甘い。

 再び重なった唇は、先ほどより熱を帯びていた。

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