第26話 夢の余韻



 温かいものが唇に触れた。

 その感触と、微かなグリーンノートの香りには覚えがある。


 ――九条さんだ。


 彼は愛おしむように、熱のこもったキスをくれる。

 現実ではありえない。これは夢?

 よかった、それなら素直に甘えられる。


 『やめないで』

 『もっと』


 吐息に掠れた声を混ぜ漏らして、朱里は深い眠りに落ちて行った。



* * *



 翌朝、目覚めた朱里は不思議な幸福感で満たされていた。嬉しくて泣いてしまいそうな夢を見た気がする。でもどんな内容だったかは思い出せない。残念、もうひと眠りしようかな~と寝返りを打ち、異変に気付いた。


 あれ? なんで寝室のベッドに居るんだろう。


 同居開始の翌日に届いたお布団セットを書斎に持ち込んで以来、寝室のベッドは使っていない。朱里は記憶の糸を手繰り寄せた。九条とテレビを観ていたところまでは覚えている。しかしそこでブツリと映像が途切れていた。あの後どうしたんだっけ。しばらく思案する。


 「…………。はっ!?」


 まさか!! 


 くるまっていた羽毛布団を跳ねのけ、朱里は猛スピードでリビングへ向かった。そしてスマホ片手にソファで寛ぐ九条の前でキキーッと急停止し、土下座する。


 「おはようございます九条様!」

 「!?」


 いきなり目前でスライディング土下座した朱里に九条は驚いたが、カンマ1秒で立ち直った。


 「おはよう。朝から何?」

 「昨日はすみませんでした!!」

 「は?」

 「ソファで寝入った件ですよ! またもや成人女子やや標準体重超えを運ばせてしまってほんとすみません!」


 数秒置いて恐る恐るおもてを上げると、意外にも涼しいお顔の九条様。でもじーっと観察されてるのはナゼ??


 「……書斎と寝室どっちに運ぶか迷ったけど、書斎はあんたがいる間、私室にしてるから入らなかった。ベッドでよく眠れた?」

 「へっ? はい! それはもうおかげさまでグッスリと!」


 珍しくふっくらと艶のある顔を両手でべしべし叩いて見せると、九条の纏う空気の温度が下がった。なぜにご機嫌斜め!? 朱里はごくりと生唾を飲み込む。


 「もしやわたし、いびきかいて寝てました?」

 「いや」

 「大の字でベッド占領してました?」

 「いや」


 正解と思われる有力な選択肢をことごとく否定され、朱里は青ざめた。ここのところ九条様は実に寛大……それをご立腹させるとは、一体どんな粗相を!? あわわわわ!


 酸っぱい梅干を大量に口に突っ込まれたような表情に変わった朱里に、九条は笑いを堪えきれなかった。


 「すごい顔。もはや芸術だね。脱居候記念ってことで一枚撮っていい? 全社内PCのスクリーンセーバーにしよう」

 「悪魔ですかあなたは!!」


 ブラックな発想におののいた朱里をからかうように見下ろし、九条は長い足を組み替えた。


 「冗談だ。別にあんたが心配するようなことは何もなかったよ。ただうっかり本音を零してたから本当は起きてるんじゃないかと疑っただけ。普段溜め込みすぎなんじゃないの。我慢してるとハゲるよ」

 「ハ……!? ちょ、悪意のこもった予言はやめて下さい! 毛根が枯れる!!」


 震え上がった朱里はハタと我に返った。


 「ん? 今、本音って言いました? わたし一体何を――」 

 「教えない。せいぜい悶々としな」

 「えぇええそんな殺生なっ!! 気になって今夜眠れませんよ!!」


 床に座り込んだまま足に縋りついてきた朱里に、九条は人の悪い笑みを浮かべた。昨夜は朱里のおかげでなかなか寝付けなかったため、ちょっとした意趣返しだ。





 九条の見立てでは、朱里は女性として自信が持てず、恋愛に関して非常に臆病だ。初対面の際、九条に見せた玉砕覚悟の勇姿はすっかりなりを潜め、再会後は自虐ともとれる干物発言や奇怪な行動を繰り返している。


 だからこそ、突然の告白に意表を突かれた。結局寝言だと分かり、安堵と、期待を裏切られた失望が胸に広がった。


 僅かでも失望した時点で答えは出ているようなものだが、立場上、九条にとって朱里は節度ある距離を保つ必要がある存在だ。だからあの時、最善の選択肢は『寝言を聞かなかったことにして立ち去る』ことだった。それでも唇を重ねたのは浅慮な行動だという自覚はあったが、衝動には抗えなかった。そんな中での出来事だった。


 『やめないで』

 『もっと』


 体に熱を灯す朱里の甘い声と、湿度を含んだ吐息が耳朶を打ち、理性が危うく崩壊しかけた。朱里を起こして続きをしたい欲求と戦う羽目になり、結局、クールダウンに時間を要して寝不足に陥った。とてもではないが同じベッドで眠ることなどできなかった。


 ――――迂闊なのはどっちだ。


 分かってる。これは完全な八つ当たりだ。


 「あの、九条さん……大丈夫ですか? 体調悪いとか?」


 心配そうに、遠慮がちに腕に触れた朱里に意識を引き戻された。大人気ない態度を取っても朱里は優しい。苦笑した九条はできるだけ自然に、ゆっくりと朱里の手を掴んで離した。


 「平気、少し考え事してただけ。それよりコーヒー淹れるけど、よかったらあんたも飲む?」

 「え? いいんですか?」


 九条は頷いた。そして前傾させていた上半身を起こし、何食わぬ顔で腰を上げ、キッチンへ向かう。


 「俺が用意してる間に合鍵持ってきて。もういらないでしょ。それとも欲しい?」

 「!! ま、まさか! すぐに持って参りますっ!!」


 シュバッと敬礼した朱里が疾風のように書斎へ消えていく姿を眺め、九条は安堵した。他人に本心を悟られない術に長けていても、自分の心は欺くことができないため注意が必要だ。



 朱里に合鍵を返してもらい、コーヒーを飲ませた後、マンションの下にタクシーを呼んで彼女を見送った。エントランス前まで荷物を運ぶ途中、彼女はいたく恐縮し、何度も感謝の言葉を口にしていた。


 元々期限付の同居生活はあっさり終止符を打ったが、朱里が自宅にいた気配が消えるのには予想していたよりずっと時間がかかりそうだった。

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