第21話 温もりに誘われて
狭い空間に囚われて息が詰まる。
カチコチになった朱里を不思議に思い、九条は耳元に唇を寄せた。
「緊張してんの?」
「ひっ!?」
耳に微かな吐息がかかって肩が跳ねる。不意打ちで囁くとかコロス気か!?
抗議するつもりで勢いよく振り向いた途端、心臓が口から飛び出そうになった。
顔 が 近 い!!
突然ドアップになった朱里に九条は一瞬驚いたが、すぐに腹黒モードへ切り替わった。どう見ても碌なことを企んでいない人の悪い笑みを浮かべている。
「そういう顔されると虐めたくなるな」
「はいぃぃ!?」
Let's退避――――!! 加虐心剥き出しの九条は危険だ!
彼の両頬を掴んでぐ~っと後方へ押し返そうと試みるも失敗。両手首を取られた。九条は挑発するような眼差しで朱里の濡れた腕に軽く口づけ、滴っていた水滴をペロリと舐め上げた。舌の生温かい感触にぞくりと甘い痺れが走る。
「ゃ……っ」
堪えられず漏らした声は掠れていた。上目遣いの九条は扇情的で、否応なくお仕置きを思い出す。肌が火照って涙目になった朱里は潔く降参した。このままではライフゲージが危うい……!
「九条さ……や、めて」
途切れがちに懇願する朱里の頬は仄かに上気していた。朱里は無意識だったが、困惑した表情はそこはかとなく支配欲をそそるものがあった。九条は我に返って視線を逸らし、パッと離れた。
「……悪ふざけが過ぎた。腕は大丈夫?」
「は、はい。火傷になってません」
「そう。じゃ、もう手伝いはいいから座って」
九条がくるりと背中を向けたので、朱里はホッとした。これ以上は本気で心臓がもたない……!
逸る鼓動を抑えてダイニングテーブルに着席すると、5分ほどして料理が運ばれた。きつね色に焼けたチキンには朱里の切った野菜が軽く炒めて添えられている。まず肉の香りが最高だが、目にも彩り鮮やかなプレートに食欲をそそられた。
「おおおお! 素晴らしきかな九条飯!」
「変なネーミングはやめて。ほら、温かいうちに食べるよ」
テーブルを挟んだ向かいの席に九条が腰掛けるのを見届け、「いただきます!」と両手を合わせた。
二人きりで夕食@九条邸というのはなかなかに奇妙なシチュエーションだが、それほど違和感がないのは居心地がいいからかもしれない。いつのまにか到着時の緊張を忘れて食事を楽しめた。
「うまっ! 塩コショウしかしてないのになんでこんな旨味出るんですか? もしや100gウン千円の高級鶏――」
「なわけあるか。どんだけエンゲル係数跳ね上げる気だ。第一そんな高価な肉、その辺のスーパーで売ってるかよ」
「た、確かに……。というか九条さんもスーパーに行くんですね。普通に考えると当たり前なんですけどイメージできないです」
なぜなら会社での九条には生活感がない。外面完璧な王子っぷりだけ見れば、彼が豪邸に住んでいて執事やメイドに囲まれる生活を送っていると言われても納得だ。実際ここは朱里のようなド庶民には縁遠い高級マンションだし、ひとり暮らしにしては贅沢な間取りで家具はどれも上質そうだ。だけど自然体で洒落たインテリアは華美ではないのでいわゆる成金趣味のようないやらしさは全くない。
「意外と堅実な私生活送ってるんですね。料理できるなんて家庭的だし見直しました」
「いつからあんたに見直されるキャラに成り下がったんだ俺は」
「え? 最初からですけど何か?」
コンビニのキス強奪魔事件を匂わせて白い目を向けると、九条はしらっとそれを無視した。追い打ちをかけたいが致命的なカウンターに遭いそうなのでここで話題を変えよう。
「明日からどうします? 毎朝一緒に出勤はさすがに怪しまれますよね。少し時間ずらしましょうか」
「ま、ずらした方が無難だろうな」
「ですよね。付き合ってると誤解されたら困りますし」
「主に九条さんが」。何気なく放った一言に九条はピクリと反応した。彼はナイフとフォークを扱う手を止め、大口でチキンを頬張る朱里を鋭く睨んだ。
「何言ってんの? 俺が気にしてるのはそんな事じゃない。あんたにあらぬ噂が立つかもしれないだろ」
「なんですかあらぬ噂って。わたしが九条さんを脅して無理矢理押しかけ女房してるとかですか?」
「バカか。どうしたらそんな妄想膨らませられるんだ。俺はあんたが――――」
やや苛立った九条が珍しく冷静さを欠いたので、朱里は瞳を丸くした。九条はきょとんとする朱里を前にぐっと言葉に詰まり、ため息を漏らした。
「……ともかく鍵がないと不便だろ。明日スペアキー作るからそれ使え。あと、俺がいない間家に誰か来ても出るなよ。返事は?」
「は、はい!」
「分かったらいい。夕食の片付けは俺がやる。あんたは食べ終わったら風呂入って寝な」
素っ気なく告げた九条はどことなく不機嫌で、それ以降会話は続かなかった。食後は片付けを手伝いたかったが、言い出すと彼の眉間の皺が深くなりそうなので諦めよう。
空いた食器を下げるに留め、朱里は荷物を書斎に運んだ。居候中は書斎を借りることになったのだ。一足先にパジャマ姿になり、タオル等を脇に挟んでキッチンへ顔を出した。
「えーと、お風呂借りますね」
「どうぞ。毎回断らなくていいから自由に使って」
九条はシンクの前で軽く食器を洗い流し、ビルトインの食器洗い乾燥機に並べている。申し訳ないと思いつつ会釈してバスルームに向かった。
パウダールームからテンパードアで入るバスルームは広々していた。十分な深さと長さのある浴槽は体を伸ばせそうだ。タイル張りの壁や床はベージュで統一されていて、柔らかい雰囲気が寛ぎを誘う。本当ならゆっくり湯船に浸かって疲れを取りたいところだが、体調がよくないので今夜は自重しよう。
脱衣を済ませた朱里はスライドバー付のシャワーヘッドを手に取った。薄型で円形の大きなシャワーヘッドから勢いよくお湯を浴びる。備えてあったボディーソープで体を洗い、シャンプーをした。爽やかなハーブの香りが心地いい。少量でも十分にきめ細やかな泡立ちを得られ、朱里は汗と共に疲れを洗い流した。
「お風呂ありがとうございました」
髪をドライヤーで乾かし、適当に手ぐしで整えた朱里がリビングに戻ると、九条がソファで寛いでいた。組んだ足の上で広げていたのは業界専門誌(しかも英語!)だ。朱里は驚愕して大げさに後ずさった。
「ぎぇっ!? 寝る前になんてもの読んでるんですか!」
「別に普通だろ。暇だったから情報収集兼ねて斜め読みしてただけだ」
「ほぉ―――――ん。そうですかふぉ―――――ん」
「おかしな奇声を発するな」
「いでっ!?」
九条の隣に腰を沈めた朱里に軽くチョップをかまし、九条は立ち上がった。パタンと閉じた雑誌をソファ前のテーブルに放るのを恨みがましく眺めつつ、朱里は「そういえば」と口を開いた。
「毛布って予備あります? なければバスタオルでも借りようかと思ってるんですけど」
「あるけど何、寒いの? 暖房入れようか」
「いえいえ、暖房入れなくても十分暖かいですよ。ただ寝るのに何かくるまるものが欲しいなと」
「寝るのに? ベッドあるだろ」
「ベッドは九条さんのでしょ。わたしは初めからソファをお借りする気満々です」
ソファに座ったまま隣をボフボフ叩くと、九条は呆れ返った。
「正気か? 会社で倒れたあんたを俺がソファで寝かせるわけないだろ。今日は急だったから予備の寝具を用意できてないけど、明日届くよう手配しておいたから今夜は俺のベッドで――」
「そんなのダメですよ! どこの世界に家主を差し置いてベッドを使う居候がいるんですか!」
「ある種の緊急事態だろ割り切れ」
「無理です!!」
頑として譲らない朱里が鼻息荒くクッションを胸に抱き寄せたので、九条はほとほと疲れた。
「話にならないな。ど――――してもここで寝るつもりか?」
「はい。ソファはわたしの陣地です」
「分かった。じゃあ折衷案でいこう」
「折衷案? って、えぇええ!?」
気付けば体が宙に浮いていた。膝の裏と背中に腕を差し込んだ九条が朱里をひょいと抱き上げたのだ。世にいうお姫様抱っこの状態で朱里は暴れた。
「いきなり何するんですか!?」
「こら、暴れるな落とすぞ」
「いいですよむしろ放して! 成人女子の体重舐めないで下さい!」
「今更だろ。こうしてあんたを運ぶのは二度目だ」
ヒィ――――!!!!
こんな状態を社内の皆様に目撃されたのかと思うと穴に潜りたい……! いやむしろ奥深く埋めてくれ~!
ブクブク泡を吹きそうになった朱里は青ざめた。九条は素知らぬ顔で寝室へ向かい、ベッドに朱里を降ろす。
「二人で寝るには少し狭いけど一晩だ。我慢しろ」
「……ふぁい」
もう涙も出ない……。気力を奪われ口から魂が抜け出そうだ。しょぼくれてベッドの端に移動した。
「そんな端っこでいいわけ」
「大丈夫れす」
「あっそ。端に寄り過ぎて落っこちるなよ。俺も着替えて寝る」
「お、お風呂入らないんですか?」
「俺は朝派だ。たまに夜ゆっくり浸かることもあるけどな。今の部室に配属されてからは殆どシャワーで済ませてる」
面倒そうな九条がウォークインクローゼットに向かうのを眺め、朱里はむずむずした。アハンな展開じゃなくても同じベッドで一晩過ごすというのはハードルが高い。かえって不眠が悪化するんじゃ……!
うぉぉぉぉと床ローリングしたい衝動に駆られたが、重要なことに気付いて苦悩は止んだ。薄暗い寝室の中、ベッドの上で正座して待っていた朱里に、着替えを済ませた九条はビクッとした。
「驚いた。座敷童かよ」
「いえ。そのような良きものではございませぬ。が! この度しばらく居候させて頂けることになりまして誠にありがとうございます。ご厚意痛み入ります。会社での件も色々とお手数お掛けしました」
深々~と両手をハの字に着いて頭を下げる。九条は若干訝しげに近寄った。
「何、急に改まって」
「わたしとしたことがちゃんとお礼言えてなかったなと思いまして」
「律儀だな。半分は俺に追い詰められて倒れたのに」
「別に九条さんのせいじゃありません。自惚れないで下さい」
朱里はプイっと顔を背けた。可愛げゼロ? 分かってますとも自分でも引くくらい素直じゃないですね。九条は失礼な態度に気分を害さずあっさり頷いた。
「そう。じゃ、気にしない。だからあんたも気にするなよ」
「何をです」
「俺の家に居候することだよ。言っただろ、これは個人的な提案だって。俺が勝手にあんたを甘やかして呼んだんだ。……だからそんなに気を遣うな」
困ったように笑った九条が、朱里の頰にかかっていた髪を耳の後ろに流した。ガラス細工に触れるように慎重で、優しい触れ方に胸が締め付けられる。労るような、慈愛のこもった瞳はいつまでも眺めていたくなる。
「……ありがとうございます。九条さんが居てくれてよかった」
「はいはい。今夜はゆっくり休みな。具合が悪くなったら夜中でも起こせよ。あんたはすぐ我慢する癖があるけど、それは俺の前で不要」
九条がベッドに上がってくる。布擦れの音と共に九条の重みでベッドが沈んだ。体がほんの少し彼の方へ傾いて落ち着かない気持ちになったが、九条は拍子抜けするほど涼しい顔をしていた。
「おやすみ」
「お、おやすみなさい」
シンと部屋が静まり返った。朱里もごそごそベッドにもぐる。寝返りを打てば確実に触れてしまう距離で、自分の体や髪から九条と同じ匂いがする。シャンプーとボディーソープを借りたのだから当然のことだが、気恥ずかしかった。ドキドキと鼓動が脈打つ音が鼓膜まで響いている。
どうしよう。好きだ。隣にいるこの人の事が、好き。
心の中でも言葉にすれば、胸がぎゅうっと苦しくなった。こんな状況でも平気で眠れる九条にとって、やはり自分は恋愛対象ではないのだろう。そんなことは分かり切っているし、釣り合わない自覚は十分ある。
九条が高級レストランのメインディッシュなら自分は居酒屋のつまみどころか箸さえつけてもらえないレベルのB級珍味。例えはアレだがつまり、分不相応な恋をしてしまった!
それでも、叶わなくて辛い気持ちより側にいられる喜びが上回っている。――だって大事にされてる。それが部下としてでもとても嬉しい。
ふと九条がさっき言いかけた事が気になった。あらぬ噂って何を想像してたんだろう?
九条の何気ない言動や挙動に一喜一憂して、エンドレスなジェットコースターに乗ってるみたいだ。彼が自分のことを好きだと言ってくれたらどんな気分だろうか。幸せを噛み締める前に卒倒するかもしれない、なんてバカげた妄想をして笑みが零れた。
少しでもいい。いつかこの人がわたしのことを好きになってくれたらなぁ……。
贅沢な願いはとても口に出せない。でもいい。今はこれで。
隣で眠る九条の気配に安心した朱里は次第に睡魔が襲ってきた。そしてあれほど不眠で悩まされていたのが嘘のように快い眠りへ誘われていった。
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