第20話 近付く距離

 結局、朱里が九条の提案を受け入れようと決めたのは定時過ぎだった。


 宇佐美の手前、抜け駆けのような真似は憚られたが、ここ一週間の過度なストレスと疲労、寒すぎる懐具合を考えた結果だ。九条の世話になれば再び空き巣被害に遭うのではないかという恐怖心から解放される。また、自宅の近所で周辺環境を把握できているので困ることはない。これは同棲ではなく一時避難的な同居(しかも居候)である、という点で朱里は踏ん切りをつけた。


 仮眠室から部室へ戻って九条に意向を伝えると、事はスムーズに運んだ。


 まずは一旦自宅へ立ち寄り荷物をまとめ、例のコンビニで九条と落ち合った。思ったより荷造りに時間がかかって待たせてしまったが、九条は文句を言わなかったし、当然のように荷物を持ってくれたのでありがたかった。


 静穏な邸宅街に佇む地上30階建てのタワーマンション――九条はその18階に部屋を借りていた。


 「どうぞ」

 「お、おおおお邪魔します……」


 広々としたリビングに通され、朱里は肩を縮めた。


 モノトーンが基調の部屋には壁を背にライトグレーのソファが設置され、その両サイドに黒いテーブルランプが置かれている。ソファの後ろにはセンスのいい絵が二枚飾られており、全体としてスタイリッシュな雰囲気だ。モノトーンの中でクッションと一人掛けの椅子だけが綺麗な青色でいいアクセントになっている。


 「なんていうか、洒落た部屋ですね。The☆九条さん! って感じ」

 「なんだそれ」


 九条は息を抜いて笑った。彼がスーツの上着を脱ぎ、ネクタイの結び目を緩めてシャツから引き抜く何気ない動作にドキリとした。視線を背けた朱里は邪魔にならない場所に荷物を置いてハッとする。


 「あ、しまった! 夕飯まだですよね。お弁当か何か買ってきます!」

 「いい。買い置きの食材があるから俺が適当に作る」

 「え! 九条さん料理するんですか!?」

 「するよ普通に。昼は社食で済ませることが多いけど基本自炊だ。外食や買い食いばかりだと健康に悪いだろ」


 さらっと耳の痛い事実を突きつけられ、朱里はグウの音も出なかった。


 朱里自身は会社と家の往復生活で精一杯で、家事はおろそかになっている。たまにキッチンを使用すると洗い物を放置して数日後にはシンクが魔海と化す。そのため昼は社食かコンビニ、夜は駅前の安い飲食チェーン店で外食またはスーパーでお弁当を買って帰っている。


 「……九条さんの毛穴レスな美肌は内側から作られてるんですね」

 「何落ち込んでんの? 夕食の前に家の中案内するからついて来な」


 ひらひら手招きする九条の背中を追うと、彼は家の中を案内してくれた。

 間取りは2LDK。一人暮らしにしてはかなり広い。リビングダイニング、キッチン、ベッドルーム、書斎。いずれの部屋も片付いており、清潔感に溢れている。


 九条は家でも几帳面なんだな、と感心しているうちに案内は終盤に差しかかった。


 「……で、ここがパウダールーム。鏡の裏が収納スペースになってるから、必要なものがあれば置いて。バスルームは隣。遠慮せず使って」

 「分かりました。ありがとうございます。何から何まですみません」


 朱里が頭を下げると、九条は去って行った。夕飯は九条が作ると言っていたが、居候の身で手伝わないのは気が引ける。さっさと手洗いうがいを済ませて戻ろう――料理は自信がないけど野菜の皮むきくらいはできる――そう思いながらスクエア型の浅い洗面ボウルの前に立つ。ハンドソープを拝借して水を出すレバーを上げた。鏡に映る自分の顔はひどく疲れていた。



 「お待たせしました! 夕飯作り手伝います」


 タオルでしっかり手を拭いた朱里はキッチンで敬礼した。カウンターに佇む九条は私服に着替えを済ませており、エプロン姿で包丁を握っている。手元を覗き込むとまな板の上には大きめの鶏肉が広げられていた。


 「何してるんですか?」

 「筋取り」

 「筋……? この横によけてある白いやつ?」

 「そう」


 「簡単にでも下ごしらえすると仕上がりが全然違うから」、と言いつつ塩コショウを振る九条の慣れた手つきに舌を巻いた。男料理(カット野菜と肉をぶち込むだけのやきそばや鍋)しかレパートリーのない朱里には縁のない発想だった。女子力0? いやはやなんとも決まりが悪い。


 「誰でも向き不向きはあるから気にするな」

 「!! ちょ、エスパーですか! 勝手に人の心読まないで下さいっ」


 朱里が猛然と吠え、九条は可笑しそうに瞳を細めた。


 「暇ならテレビでも見れば。リビングのテーブルにリモコンあっただろ」

 「いやいや居候の分際で自分だけ寛げませんよ!」 

 「そう? 俺は気にしない。むしろ無理せず休んでもらってた方が気楽。ここにいたいなら居てもいいけど張り切って倒れるなよ」

 「ぐっ……!」


 言葉に詰まった朱里は半歩後ろに下がった。


 ガラストップコンロに置かれたフライパンにオリーブオイルを垂らした九条は、荒くみじん切りにした薬味を弱火で炒めている。にんにくとしょうがの香ばしい匂いが漂ってきて、ごくりと喉が鳴った。


 何か自分にもできることはないかとキッチンを見回すと、見かねた九条から「じゃあ食器を用意して」と言われたので指示どおり行動する。スライド式の収納棚から適当な大きさの食器を見繕い、キッチンカウンターの上に重ねた。ついでにカトラリーを二人分ダイニングテーブルへ運びセットする。


 ……ミッションはあっという間に終わってしまった。


 他にも何かないかな?

 軽い足取りでキッチンに戻ると、カウンターにズッキーニとパプリカが出されていることに気付いて手に取った。おっ表面がひんやりしてる。ついさっきまで冷蔵されてたんだな。


 「これも焼くんですよね?」


 両手に野菜を持ってひょいと九条に見せたその時、パチパチと油の跳ねる音を立てながら次第に焼き上がっていく肉の匂いにつられてお腹が鳴った。ぐぅ~~~~きゅるきゅるきゅる。


 「…………」

 「…………」


 二人無言で顔を見合わせた。気まずい沈黙を破ったのは吹き出した九条だった。


 「ぶはっ! 何そのお約束な反応」

 「しょ、しょうがないでしょ!? 腹の虫なんて誰もコントロールできませんよ!!」


 朱里はぷんすか腹を立て、鼻息荒くシンクの前に移動した。


 まずは肉を切るのに使ったまな板と包丁をさっと水で流し、野菜を洗う。ズッキーニは厚めの輪切りに、パプリカは半分に割って種を取り除き、くし切りにしていく。料理は苦手だが、最低限、包丁の使い方については実家で習得済みだ。


 「へぇ、意外と様になってるな」


 上から手元を眺める九条が憎たらしい。完成したチキンソテーをそれぞれ皿に盛りつける――それだけで絵になるところがさらに腹立たしく、朱里は眉間に皺を寄せた。


 「あのですね。自分が器用だからって人をなんだと思ってるんですか? このくらいならわたしだってできますよ!」

 「どうやらそうみたいだな。思ったよりも筋が悪くなさそうだ。あんたは手がかかるけど仕込み甲斐があるな」

 「仕込むて! 芸じゃあるまいし犬扱いしないで下さい!!」


 カットした野菜を勢いよくフライパンに放り込んだ。と、残っていた鶏の油が腕に跳ねて痛みが走る。


 「熱っ!?」

 「バカ! 何やってんだ」


 反射的に腕を引っ込めると同時に九条が迫り、シンクの前に強制連行された。すぐさま流水で腕を冷やされほっとしたのも束の間、朱里は硬直した。右手で朱里の腕を掴み、左手をシンクの淵に着いた九条――前傾した彼の胸は自分の背中に密着しており、まるで後ろから抱き締められるような体勢になっていたのだ。



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