第19話 思いがけない提案

 「……い。先輩!!」


 誰かに強く肩を揺さぶられ、ハッと気が付いた。悪夢の余韻で心臓はドクドクと嫌な音を立て、ボトルネックのニットトップスが肌に張り付くほどじっとり脂汗をかいていた。


 目の前にはなぜか宇佐美がいて、ひどく心配そうな顔をしている。


 「ああ、目が覚めてよかったです! 先輩めちゃめちゃうなされてましたよ」

 「え……?」


 朱里は状況が理解できず混乱した。


 ついさっき会議室で九条に当たり散らし、急激に具合が悪くなったところまでは覚えている。が、その後の記憶がプッツリ途切れていた。


 いつのまにか仰向けの姿勢でベッドに寝かされており、狐につままれたような気分の朱里を、宇佐美は気遣わしげに見下ろした。


 「ここは女性用の仮眠室です。先輩は会議室で倒れたんですよ。九条さんがここまで運んで下さったの覚えてませんか?」

 「……全然覚えてない」

 「そうですか。完全に気を失っていたんですね」


 「ふぅ」とひと息吐き、ベッドの端に腰を沈めた宇佐美は朱里が倒れてからのことを順を追って説明してくれた。


 朱里が会議室で倒れた直後、九条は素早く産業医を呼びに行った。駆けつけた産業医に診察してもらったところ症状に緊急性はなく、過度のストレスと睡眠不足による疲労ではないかと判断された。それで九条が室長に朱里を仮眠室で休ませるよう進言したらしい。


 一部始終を聞いた朱里は納得した。


 「なるほど、それでうさみんは様子を見に来てくれたんだ。ありがと。心配かけてごめん」

 「ホントですよ! 先輩が倒れたって聞いた時は心臓が縮み上がりました! まぁそれにしても……」


 顎に手を当て、思案するような顔つきの宇佐美にじっと見つめられ、朱里は枕に頭をつけたまま「ん? どうかしたの?」と首を傾げた。宇佐美は一拍置き、躊躇いがちに口を開いた。


 「私、あんなに焦った九条さん初めて見ました。どんな局面でも冷静なあの人が、先輩の身を案じて医務室に飛んでったんですよ? そりゃ部下がいきなり倒れたら誰だって慌てますけど、鬼気迫る感じで怖かったです」

 「そ、そんなにピリピリしてたの?」

 「そりゃあもう! 先輩を横抱きにして仮眠室に運ぶ時なんか、この役は誰にも譲らないって無言のオーラ放ってましたもん。皆気圧されて黙ってました」


 思わず息を呑んだ。


 会社での九条は外面が完璧で隙がない。そんな彼が人目も憚らず朱里のために奔走した、という話は相当信じ難かった。


 「えぇと……それってうさみんの妄想じゃないよね?」

 「違いますよ!! はぁ。正直、負けたって思っちゃいました」

 「負けた? 何に?」


 訊かれた宇佐美は鈍感な朱里をじろっと睨んだが、やがて諦めた様子で肩を竦めた。


 「どうせ先輩に話したって分からないですよ。こっちはずーっとモヤモヤしてるっていうのにいい気なモンですね」


 皮肉っぽい口調は宇佐美らしいが、つんけんした態度を取っていても彼女が落ち込んでいることが窺えた。朱里は横たえていた上体をゆっくり起こし、宇佐美と視線を合わせた。


 「何に悩んでるの? 聞かせて。先輩にしちゃ頼りないだろうけど、例えばもし会社のことで悩んでるなら力になれることがあるかもしれない」


 誠実な面持ちで向き合う朱里に、宇佐美は驚きを浮かべた。そしてすぐに呆れて苦笑する。


 「先輩、自分の状況分かってます? それでなくても出張で疲れてるのに、空き巣被害に遭った上、うなされて眠れないんですよ? それでも律儀に出勤してる今、私の心配をするんですか? 先輩にしてみたらくだらない悩みかもしれないのに」

 「それとこれとは話が別だよ。うさみんが悩んでるなら何であってもくだらなくないよ」


 宇佐美は茶化そうとしたが、朱里は真摯な態度を貫いた。そこでふと、宇佐美は朱里と出会った頃のことを思い出す。


 部室に配属された当初、朱里は不器用で、けして要領がいいとは言えず鈍くさかった。だけど裏表がなく、憎めない性格で、一緒にいると素で笑ってしまうような先輩だった。そして徐々に親しくなり、お互い腹を割れる関係になる頃には朱里に対する評価は改まっていた。


 朱里は同僚の中でも人一倍努力家で自分に厳しい。泣き言を零しても適当に妥協しないし、上司から理不尽に叱られることがあっても仕事で取り返そうとする。


 元々恵まれた容姿だった宇佐美は幼い頃から同性による嫉妬や地味な嫌がらせを受け、その結果、警戒心が強く簡単に人を信用できずに育ったが、そんな中で朱里には自然と心を許してしまうような温かさがある。情に篤いからだろう。


 「……きっと先輩がそういう人だから九条さんは放っておけないんでしょうね」


 聞き取れない程小さく囁いた宇佐美は、気持ちを切り替え、朗らかに笑った。


 「大丈夫です! 私の悩みは時間が経てばスッキリ解決します。ただちょっと先輩が羨ましかったんですよ〜。仮に倒れたのが私でも九条さんは助けてくれたでしょうけど、あんな顔は絶対してくれなかったと思うから」

 「うさみん……」


 朱里はどう答えていいか分からず口ごもった。宇佐美はそれを大して気に留めず、朱里の鼻先に人差し指を突き出した。


 「いいですか? 先輩は私のライバルです。前に先輩、私が先輩に嫉妬するなんて笑い話にもならないって言いましたけど、あれ、次は絶交ですからね!」


 「男性の心を動かすものは女子力とは限りませんから」、と付け足した宇佐美に諭され、朱里は胸が詰まった。九条との一連の出来事と、つい最近自覚した想いについては宇佐美に打ち明けていない。秘密にしている後ろめたさで罪悪感が生まれたが、自分の気持ちを楽にするために吐露する気は起きなかった。


 九条の件は折を見て話そうと決意し、宇佐美と肩を並べて部室に戻ると、朱里に気付いた同僚達がワッと集まってきた。誰ひとり責める様子はなく、それぞれから労いの言葉を貰い、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいになる。


 「起きて大丈夫なんですか」

 「……っ! 九条さん」


 凛とした声に心臓が跳ねる。正直心の準備ができていなかった。

 しかし九条が現れたことで朱里をぐるりと囲んでいた人垣が割れ、見計らったように皆自分の席へ戻っていってしまう。部室には自然といつもの空気が戻ったが、九条の纏うオーラが微妙に険しくてたじろいだ。


 「は、はい。もう大丈夫です」

 「そうですか。では話があるのでついて来て下さい」

 「!! ……分かりました」


 一見すると冷静な彼の後に従い、朱理は内心呻いた。そして再び先程の会議室に連れ戻された瞬間、緊張が最高潮に達した。


 自分の失態を考えればどんな叱責を受けてもおかしくないが、このタイミングで雷を落とされるとさすがに挫けそうだ。どんな罵声を浴びせられるか身構えたその時――


「悪かった」


 開口一番謝罪され、予想外の展開に目を剥いた。しかも九条に頭を下げられるなど初めてだ。朱里は面喰ってフリーズした。


 「……すみません、あの、状況が理解できないです。どうして九条さんが謝るんですか? わたしの自己管理が甘かったせいでかなりご迷惑を掛けたと思うのでむしろ謝罪するのは――」

 「いや、あんたを限界まで追い詰めたのは俺だ。こうなる前にもっと早く釘を刺すべきだった」


 すっと頭を上げた九条の顔は後悔に満ちていて呼吸を忘れた。胸に刺さっていた棘がするんと抜け落ちて緊張が解けた。他方、九条は何か言いたげに口を開いたが、珍しく歯切れ悪く首を横に振った。


 「とにかく大事に至らなくてよかった。今日は早退して病院で診てもらうか家でゆっくり休め。室長には俺が許可を取っておく。伝えたかったのはそれだけだ」


 視線を逸らした九条が会議室の扉を開けるのを、反射的に止めていた。ドアノブを回そうとした九条の手に自分のてのひらを重ね、朱里は彼を見上げた。


 「待って下さい。さっきは意地を張って隠してしまいましたが、業務に支障を出した以上、やはりご報告させて下さい。もしお時間が許せば今ここで」


 朱里の真剣な眼差しを受け、九条は静かに頷いた。拒絶されなかったことに安堵し、朱里はそっと九条の手を離した。朱里の体調を気遣った九条にソファに座るよう促されたが、すぐに済む話だと丁重に断る。壁を背に軽く足を組んでもたれる九条と少し離れて向き合い、朱里は出張後の出来事を簡潔に報告した。


 九条は空き巣被害のくだりで衝撃を受け、うなされて眠れない件には苦し気な表情を浮かべた。それでも最初から最後まで口を挟まずに耳を傾けてくれた。報告を終えた朱里は小さく息を吐き、両手を組んだ。


 「ということがありまして、最近の不調はそれが原因です」

 「……なるほど。事情は分かった」


 少し疲れた様子で首肯した九条は、未だ青白い朱里の顔をじっと観察した。射抜くような視線に性懲りもなく胸が鳴ったが、朱里は自制心でそれを抑えた。しかし直後、心臓が破裂しそうな提案がなされた。


 「あんたうちに来れば」

 「ブフォ!!」


 さらっと爆弾を投下されて吹き出した。鼓動がドコドコ激しくリズムを刻んでいる! 突然何を言い出すんだこの男は!? 

 信じられない気持ちだったが、朱里を見据える九条は至って真面目で、一切の下心を感じない。ただ、強い眼差しは焼けつくような焦燥感を帯びていた。


 「あんたが倒れた時、生きた心地がしなかった」

 「え……」

 「それに、すぐ引っ越せないんだろ? 次の物件が決まるまでずっとそんな調子でいられたらさすがに堪える。後生だから俺の目の届く場所にいろ」


 最後の台詞だけ聞けばかなり甘いが、浮かれる気分にはなれず、朱里は足元に視線を落とした。


 「ありがとうございます。心配して下さってるんですよね。嬉しいですけど、お断りします」

 「なんで? 家賃はいらない。近所だから周辺の環境も把握してるだろうし、悪い話じゃないだろ」

 「そりゃそうですけど、どう考えても上司の責任の範疇を超えてるじゃないですか。九条さんには何のメリットもない。そこまで迷惑かけられるほど図太くありませんよ」


 正論を前に九条はムッとした。


 「俺だって肩書を盾に無理強いする気はない」

 「だったら――」

 「鈍いな。これは個人的な提案だ。来るか来ないかはあんたの自由だ」


 「ただしうちに来ればその間の安全は保障する」、と告げた九条に今度こそ度肝を抜かれた。弾けるように顔を上げると、九条は微かに笑った。


 「今日はもう定時まで休め。で、帰るまでにどうするか決めればいい」


 壁から背を離した九条はドアに向かう途中、通り過ぎざまに朱里の頭に手をのせた。ぽん、と柔らかく撫でた手は一瞬で離れたが、朱里は頬が熱くなるのを止められなかった。

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