第16話 思わぬカウンターは危険です
結局、九条とはフロントで一旦解散した。
九条が着替えとタオルを取りに行く間、朱里は部屋で奮闘していた。一人だからといってスーツケースを広げっ放しで好き放題に散らかしていたことをすっかり忘れていたのだ。
部屋のドアがノックされたのは、高速で荷物を見苦しくない程度に片付けた(クローゼットに押し込んだ)後だった。少し時間を空けてくれたのは九条なりの気遣いかもしれない。朱里は「はいはい~どうぞ!」と明るい声でドアを開け、九条を部屋の中に迎え入れた。
「へぇ、片付いてるな」
意外そうに部屋を軽く見回した後、九条は朱里に断りを入れてバスルームに向かった。今朝のルームサービスで清掃されたままの浴室を先に使うことに関して彼は遠慮したが、朱里としてはむしろ自分が使った後で貸す方が気まずいので、やや強引に押し切った。
間もなくバスルームからシャワーの音が聞こえ始め、朱里は髪を後ろでひとつに束ねて机に向かった。ノート型PCを広げ、今日の調査のポイントを箇条書きにする。記憶が新しいうちに書き出すのは重要な作業だ。
「仕事熱心だな」
「ぎゃっ!?」
タイピングに集中していた朱里は大声で飛び上がった。首にタオルをかけた九条が、いつのまにか背後から覗き込むように立っていたのだ。彼は前屈みの姿勢で机に片手を着き、真っ赤になった朱里を見下ろしている。
「シャ、シャワー終わったなら声かけて下さいよ!」
「何度もかけた。でも全然気付かなかったろ」
非難がましい視線を受け流し、九条は薄く笑った。スーツではなく上下スウェット姿の九条は新鮮だった。髪はまだ濡れているせいか普段よりくっきりとウェーブが出ており、顔に滴った水滴が色気を倍増している。朱里にも過去に恋人がいたことはあるが、男の人をセクシーだと感じたのは九条だけだ。今の彼は朱里にとって非常に目に毒だった。
「用事が済んだなら早く部屋に戻って休んだらどうですか」
「そのつもりだったけど、気が変わった。それ見てやるよ」
「は!? いやいやまだ九条さんに見せられるような段階じゃないですよ!」
画面を隠そうとパソコンに抱き着いた朱里だったが、首ねっこを掴まれ、無情にもベリッと引きはがされた。画面に集中した九条が真顔で文章に目を通している間、ビクビクして落ち着かない。思うままに書き散らした報告書案を見られるのは想定外で、羞恥で爆発寸前だった。絶対バカにされる! 覚悟を決めて瞼を閉じると――
「いいんじゃない。調査のポイントになる点はきちんと押さえてある。悪くないよ」
思いがけない好評価と共に頭をぽんと撫でられ、目を丸くした。驚いて九条を見上げると、次々とアドバイスが飛んでくる。メモを取り始めた朱里は一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けた。欠点を瞬時に見抜いて補完する九条には不本意ながら尊敬の念を禁じえない。
「……ってところかな。あとは本社に戻ってから手直しすればいいと思う」
「分かりました。ご助言ありがとうございました!」
ビシッと背筋を伸ばした朱里に感謝され、九条は表情を和らげた。
「一緒に仕事してて気付いたけど、あんたは自分の負担になるからって妥協しないよね」
「へっ?」
「例えばこの間セミナーで配布された資料。決裁回す時、起案者名は木山になってたけどあんたがずいぶん手直ししたんだろ。普通は複数の業務を掛け持ちしてるとある程度で見切りをつけるのに、あんたは限られた時間の中でも最善を求めて仕上げてくる。それができる人間は多くない」
まさかの褒め言葉に胸が詰まった。しかしすぐさま「元々要領が良いわけでもなく不器用なのにな」と付け足されて感動は台無しになる。
「わ、悪かったですね柄にもなく背伸びして!!」
「いや? そういうまっすぐな姿勢は嫌いじゃない」
完全に上から目線だったにも関わらず、「嫌いじゃない」と告げられて喜んでしまう自分が憎らしい。反応に困った朱里は九条を直視できなくなって俯いた。九条は性格が悪いが仕事に関してはフェアな評価をする男だ。だからこそ自分の働きぶりを認めてもらえたことが想像以上に嬉しかった。そして今は外国で、お互い私服姿で同じ部屋にいるという非日常的なシチュエーションが朱里を素直にした。
「わたしが妥協せずにいられるのは九条さんがいるからですよ」
「なんだ、俺が怖いのか?」
「違います。九条さんを見ていると中途半端なことをしたら恥ずかしくなるんです。だって九条さんはいつも涼しい顔してますけど、何でも簡単にこなしてるわけじゃないから」
九条が配属されて間もない頃に制度改善に関する資料の格納場所を訊かれたことは鮮明に覚えている。面倒な下調べ作業に手を抜かず、また、ただ慣例に倣って業務を進めるのではなく、問題点を洗い出し改善のため積極的に取り組んでいく姿勢は学ぶところが多い。
彼が優秀なのはこれまでに培った自身の能力が高いことが前提になっているだろうが、周囲がそれだけを見て「九条なら何でも楽にやれる」と思い込んでいる節は朱里にとって快くなかった。なぜなら彼は地道な努力を惜しまない人だ。
「今回の調査については補佐に徹するとおっしゃったとおり、基本的にはわたしを立てて、説明の足りない部分を補足したり、見落としていた点に気付かせてくれました。そういうことは単にマニュアルを読むだけじゃ到底できません。これまでの経緯、議論の変遷、過去の案件や関連する制度を熟知していてこそ成せる技です」
だからこそ九条は特別優秀だから元の出来が違うんだなんてことは口が裂けても言えない。配属されて数か月でここまでキャッチアップするのにどれほど労力を要したか、察するに余りある。
朱里は熱意が込み上げるまま九条をまっすぐ見据えて声のボリュームを上げた。
「わたしはまだまだ未熟ですし、今のところ九条さんに助けてもらってばかりですけどそのうち頼れる部下になりますから、作業依頼があればこれからもじゃんじゃん振って下さい!」
「体力と根性には自信があります!」と高らかに宣言した直後、熱弁をふるう朱里の前で一言も発さずに聞いていた九条と視線が重なる。――しまったと思った。彼を誉め称え、まるで慕っているかのような発言をしてしまったことがものすごく照れ臭い。
みるみる赤く染まってフリーズした朱里を前に、九条は愉快そうに唇の端を上げた。
「へぇ、鈍くてもちゃんと人を見る目があるんだな。見直した」
「はいぃ!?」
エベレスト級に上から目線で嫌味な男だ! 全力で腹にパンチを打ち込みたい衝動に駆られ、朱里は理性を総動員してそれを抑える羽目になった。だから危うく聞き逃すところだった。
「ありがとう」
幻聴としか思えない言葉に思考が停止した。驚きを隠せない朱里に九条の視線が和らぐ。
「あんたがそんな風に思ってくれてたとはね。上っ面じゃなく本質を見抜いて尊敬してもらえるのは光栄だ」
不遜でかつ底意地の悪い失礼男が他人に、しかも自分に屈託のない笑顔で感謝するなど
あ り え な い。
思ったままが表情に出たのか、九条は途端、不服そうに眉を吊り上げた。
「何? 俺が感謝するとおかしいわけ」
「……というか変な食べ物にあたって頭がどうかしちゃったんじゃなイダダダダダ!?」
両耳を左右にびよ~んと伸ばされた朱里は涙目になって叫んだ。容赦のない九条の加虐心むき出しの顔に恐怖を感じる!
「俺はあんたに仕事を頼んだら必ず礼を言ってるよな? この耳は飾りか?」
「いやいやいや! あれは社交辞令でしょ! 今みたいに心のこもった『ありがとう』は初めてだったしっ!」
「へぇー、普段は社交辞令で心がこもってないと?」
「全部とは言ってない! 九条さん、王子モードのとき胡散臭いんですよ! あんな風に笑顔で壁作られたら信じるモンも信じられませんって! わたしは腹黒かろうが今の九条さんの方が何百倍も――――」
ぴたっと九条の動きが止まる。両耳を解放されてほっとしたのも束の間、恐ろしく綺麗な顔が至近距離に迫って心臓が跳ねた。
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