第5話 試練の波が止まらない

 「雪村さん大丈夫ですか~? 顔色悪いですよ?」


 他課に回す書類を手渡したとき、眉毛をハの字にして訊いてきたのは同僚の香川唯花かがわゆい。彼女は宇佐美と同じ庶務班だが、正社員ではなく期間業務職員で本職は大学生。実家暮らしでわざわざ休学して勤めに来てるらしい。その目的は婚活というのは宇佐美情報だが真相は闇の中。


 「心配してくれてありがと。ちょっと寝不足なだけで元気だよ」

 「ほんとですかぁ? 目の下超黒いし、お肌ガッサガサじゃないですか~!」


 くっ! 言わずもがなな事実をオフィス内で広めないでくれ! わざとか天然か声のボリュームを上げる香川にそこはかとない悪意を感じる。わたしがお前に何をした! と声を大にして言いたい。


 本日の香川は小花柄のワンピースにロング丈カーディガンを羽織り、ピンヒールパンプスを履いている。瞬きしたら風が起きそうなまつ毛エクステとグロスたっぷりの唇が印象的だ。


 ちょいぽっちゃり系の彼女はいつも胸を強調した服を好んで着ている。前屈みになると目のやり場に困るのでやめてほしいという意見をちらほら耳にするほどだ(うっかり見るとセクハラ発言されそうで気が気じゃないらしい)。


 それなら見るなよ! と思うが、いわく「空きっ腹で焼肉の匂いにつられて振り向く」のと同じノリだと聞いて妙に納得してしまった。香ばしい炭火焼肉に甘辛いタレ……そら抗えんわな、と。


 朱里は対☆女接待モードにスイッチを切り替えて営業スマイルを浮かべた。


 「私はともかく、香川さんはいつもお肌キレイだよね~。よかったら今度オススメの化粧水教えて?」

 「え~このくらい普通ですって」


 とか言いつつまんざらでもない香川。追い打ちで「ほんと見習いたいわぁ」なんてリップサービスを放てば、気をよくした香川はセミロングの巻き髪をくるくる指で弄び始めた。ふっこれぞ秘技☆誉め殺しカウンター! 心配するフリして相手の優位に立ちたがる女には効果てきめんだ。


 よしゴマをすったところで本題に入ろう。


 「それ、早めに届けたい書類なの。悪いけど手持ちでお願いできる?」

 「分かりましたぁ。やっときます」

 「ありがとう!」


 朱里は両手を合わせ、丁寧にお礼を告げて席に戻った。香川は機嫌を損ねると地味な嫌がらせ(自分宛の文書をわざと後回しにして寄越す等)をするので余計に気を遣う。宇佐美がいれば迷わず宇佐美に頼むが、残念ながら今は外出中だ。


 「雪村さん。例の配布資料案、課内決裁下りました」

 「よしっじゃあ関係課に合議しよっか。回す前に担当者にひとこと断っておこう」


 書類を手にしていた木山は朱里の指示に顔をしかめた。


 「わざわざ合議するんですか? 締め切りも近いですし今から回したら刈り取るの時間かかりますよね」

 「これは外部に公表する資料だし、他課主管の業務に触れる場合は合議が基本だよ。間に合わなそうならちょっと手間だけど持ち回りになるね」


 持ち回りと聞いて呻く木山に朱里は閉口した。うん、手持ちで決裁取って回るの面倒だよね~気持ちは分かる。でもギリギリになってやり始めたのは木山くんだよね。何度もリマインドしたの覚えてる? と喉まで出掛ったが――さすがにそれは言わずパソコンに向き直る。


 「決裁中に照会があればまずは木山くんが受けて、分からなかったら聞いてね」

 「……分かりました」


 「雪村さん、外線にお電話ですー!」

 「あ、転送して下さいすぐ出ます!」


 不満タラタラの木山を横目に朱里は電話に出た。相手に名乗られた瞬間、さっと顔が青ざめる。うげ、こいつネチっこいクレーマー野郎じゃ~ん! 内心貧乏くじ引いたなぁと肩を落としつつ、丁寧に受け答えした。おぉぅ、こりゃ30分は捕まるな……。



 ***



 充電ナウ@休憩室。


 結局小一時間ネチネチ嫌味を言われ続けた結果、昼休みを奪われるという悲劇に見舞われた。本当はプチ贅沢ランチで癒やされようと思ってたのにツイてない。午後は会議だから長時間抜けられないし、オフィス一階のコンビニでおにぎりと春雨スープを買い、急いで掻き込む羽目に。あーやばい胃がキリキリする。これ絶対ストレスだよ、粘着系ハゲ野郎め!(見てもないがクレーマーのイメージはハゲ)。


 むしゃくしゃしながら昼食を胃に流し込み、ふと香川の言葉を思い出した。大丈夫? って万能だけど時々残酷に聞こえるのは被害妄想だろうか。


 (だって大丈夫? って聞かれたら大丈夫って答えるしかない。腹割って話せるほど親しい同僚は限られるし、たいていの場合相手も社交辞令で訊いてんだからリアルに「大丈夫じゃないです」って涙ぐんだら困るでしょ)


 大人になってそんな無様な姿晒せるかっちゅーの。食後、荒んだ気分のままゴミを乱暴に丸めて屑籠に突っ込んだ。




 *




 凝りまくりの肩を回し、ややへっぴり腰でオフィスに戻った朱里は九条と目が合った。しかしカンマ1秒で視線を逸らすスキルは取得済みだ! 腹黒エセ王子とはいえ直視してたら鼻血噴くわマジで。九条ができるだけ視界に入らないよう注意して椅子に座ったのも束の間、横から声がした。


 「雪村さん。プロジェクト申請マニュアルについて従来からの変更点が分かる資料はありますか? データ上、本文は見え消しになってますがなぜそうなったのかコメントが残ってないんです。できれば変更になった経緯と趣旨を把握したいと思うのですが……」


 おっふ。仕事の話なら無視できないー! 朱里は奥歯を噛み締めて苦々しく答えた。


 「変更の経緯を調べるなら決裁過程の書類が参考になりますよ。ただファイルの場所がちょっと分かりにくいので時間あれば案内しますけど」

 「ぜひお願いします」


 軽やかな笑みを浮かべる九条。もはや逃げ場はなかった。

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