第6話 九条菌にご注意を
プロジェクト統括室に隣接する資料室は月1の清掃業者さえ入らないため、埃っぽい空気がこもっている。ブラインドの隙間から漏れる細い光が床にバーコード状の影を落としていた。
九条を案内した朱里はフォルダが配架された棚を横目に慣れた足取りで奥まで進む。目的の棚の前で立ち止まり、上から順に背表紙を確認していった。
「先ほどお話したファイルは背表紙に『制度改善』と書かれています。マニュアルは毎年改定されるので、年度別に保存してあります。最新のは……あれですね。いま脚立を――」
「この高さなら必要ありませんよ」
すっと伸びた腕が朱里の頭のはるか上のファイルを攫った。肩が触れ、不意に近づいた距離に心臓が跳ねる。空調のない資料室は湿度が高い。服越しでも彼の体温が肌に纏わり付くようだ。二人きりの密室で朱里は落ちつかない気分になった。
「失礼」
動揺を見抜いたのか、艶やかな笑みで距離を取る九条。悔しいやら恥ずかしいやらで、酸素がやけに薄くなった気がした。だけどそんな甘酸っぱいやり取りはすぐに忘れることになった。
長い指でファイルを開いた九条の真剣な横顔にはらりと一筋髪がかかる。凜として意志の強そうな眼差しは彼の佇まいを神聖にすら思わせた。
(は、ヤバイ危うく王子の魔術に嵌りかけた!)
ゾクッと身震いした朱里は我に返って自分を戒めた。どんなに見てくれが良くても中身は傲慢チキな腹黒大魔王。好きになったら最後、骨の髄までむしゃぶり尽され搾取の果てに捨てられるのがオチだ。恐ろしすぎる! ガクブル。
「こ、ここには過去5年分の資料が残ってます。それ以前のものは地下書庫に入ってるんで、庶務班にお願いして取り寄せて下さい。手続きは宇佐美さんに聞けば分かりますから」
気を取り直しこほんと咳払いして注意を引いた。九条は集中していたので無視されるか鬱陶しがられるかの二択を想像したが、意外なことにまともな王子っぷりを発揮された。
「すみません、つい夢中で読んでしまいました。丁寧にありがとうございます。助かりました」
ぶほっ! 白米5杯はいけそうな笑顔に乙女回路がショート寸前……って、アカーーーーーン! 最初もこれにほだされてチョロ女認定されたんじゃん! ダメだ長居してると九条菌に感染するっ。
「また困ったことがあったら聞いて下さい。じゃ!」
今こそ撤退! そそくさ背中を向けた瞬間――
後ろから掴まれた左肩、背中に感じる体温に、布擦れの音。
不意に抱き寄せられ、ぽふっと背中ごと九条の胸にもたれかかった朱里は目を剥いた。
「!? な……っ」
「雪村さんは今夜の歓迎会にいらっしゃるんですか?」
吐息とともに耳朶を打つ声が心臓に悪い。頭から湯気が出そうになって口をパクパクさせた。
歓迎会の出欠なんて幹事でもないのにわざわざ訊く? つか距離が近ーーーーーーい! ここ会社! いや会社じゃなくてもダメだけどモロプライベートゾーン割ってるじゃん! 節度はどうしたエセ王子ー!
「いっぃい行きますけど」
「そうですか。楽しみにしています」
めいっぱい裏返った声で答えれば、満足げに解放する九条。だけど掴まれていた肩が、触れていた背中が熱い。キッ! っと抗議のこもった視線を向けるもニヤリとかわされてしまう。おのれ九条! 干物だから遠慮なくセクハラしていいなんて思うなよ! むしろ簡単に触るな免疫ないから九条菌に感染しても除菌がままならん!
脱兎のごとく退却して資料室の扉をバタンと閉めた。そのままずるずる座り込みそうになるのをつま先を踏ん張り扉にもたれかかる。心臓はまだ胸の中で暴れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます