第3話 干物女のしょっぱい日常

 『是枝さーん!』


 それは仕事で挫けそうなとき、何回叫んだか分からない先輩の名前。



 九条の前任・是枝(43歳)は現場経験豊富な頼りになる先輩で、朱里の隣に座っていた。仕事のイロハは彼に学んだと言っても過言ではない。だから海外支部に異動になると聞いた時は庇護者がいなくなる不安に襲われ、人目も憚らず涙ぐんだことを覚えている。


 実際いなくなってみれば日を追うごとに「いない」ことに慣れてしまってそれもまた寂しかったけれど、会社なんてそんなものだ。だからあまり間を空けずに後任が来るって聞いた時はホッとした。もう空になった執務机を見て寂しくなることはないって。


 ……でも。



 プルルル…… プルルル……



 室内に響く着信音。頻繁に誰かの電話が鳴ってる状況で、朱里はチラリと右側を盗み見た。隣には異常に横顔がキレイな男が座っている。今はフォルダを手に受話器を肩に挟みながら流暢な英語で対応中だ。カタコト日本語英語とは次元が違う美しい発音にはつい聞き惚れてしまう。


 通話の後、静かに置かれた受話器。ちょっとしたことだけどガチャ切りしないところに育ちの良さを感じる。左手首にはセンスの良い(しかも高そうな)腕時計がさりげなくはめられていて、どこのブランドだろうと朱里は舌を巻いた。九条王子は本日も眼鏡をかけていらっしゃる。視力弱いのかな? 軽く腕まくりしてネクタイを緩める仕草がかなり色っぽい。……こいつに欠点はないのか? 完璧超人乙。


 「さすがニューヨーク支部帰りですね」


 つい、ポロリと嫌味が出た。九条はパソコンの画面を見たまま薄く笑った。くっなんだその余裕は! 英語なんて朝飯前です☆ ってか? とことんスカしてる。鼻息荒めにキーボードを打つ速度を速めると、背後から声がした。



 「雪村さん。これ、今度のセミナーで使う配布資料案なんですけど、室内で決裁取る前に確認してもらえますか」



 振り向くと、無愛想な顔で書類を突き出してきたのは入社一年目の後輩・木山俊きやましゅん。彼は明らかにリクルート用に調達したと思われるスーツを着回している。あまり服装に頓着しないらしい。いわゆる塩系のあっさりした顔立ちで小ぶりな唇がいつも真横に結ばれているため、デフォで不機嫌に見えなくもない。


 彼の肩書きは研修生だが、常に人手不足のここ――海外事業部プロジェクト統括室ではいっぱしのプレイヤーとしてわんさと仕事を振られる。当然新人が1人で回すのは無理があり、教育係を押しつけ……げふんげふん、ありがたく拝命した朱里は木山の仕事をサポートする役目を負った。


 いやほんと光栄ですよ。入社3年目にして新人の教育係なんてね。まぁうちの会社じゃ特に珍しくもないみたいだし、任されたからにはこの雪村朱里、一肌脱がせていただきますぞ! と意気込んでいたものの――


 「じゃ、そういうことで。今日は定時に帰りたいんで午後イチでコメント下さいね」


 カッチ―――ン。


 問題はこの態度だ。来たばかりの頃は元々こういう奴なのかと思って静観していたが、朱里以外にはわりと礼儀正しく受け答えしてるのを見る限り、明らかになめられている。つか定時で帰りたいのなんてみんな一緒じゃんよ~! ウチのカウンターパートは主に海外支部だから、時差の関係で必要に迫られて残業してるのさ~!


 「……わかった。なるべく急いでチェックするね」


 小言を飲み込んで引き攣りそうな口角を上げた。木山は無言で席に戻っていく。ここでビシっと注意できればいいけど、1回それで仕事を休まれてるから扱いに悩む。あのね木山くん、わたし体育会系じゃないのよ? でも聖人君子でもないからモヤッとするのよどうしたらいいのよこのやり場のない気持ち。


 こっそりため息を吐いて朱里は席を立った。……情けないと思われたかな? 恥ずかしくて九条の顔をまともに見られなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る