小さな音楽家と小さな魔女

碧音あおい

ルチルクォーツとムーンストーンをついばんだヒバリ

 足の悪い祖母がやしきの広い庭園より外に出るなんて、とても珍しいことだった。少なくとも幼い少年が知る限りでは初めてだった。まして馬車に乗ってどこかに行こうとするなんて。

 だから少年は階段に座って小さなリコーダーを奏でていた手を止めると、躊躇なく馬車に駆け寄って祖母に訊ねた。

 お祖母様ばあさま、どこに行くの?

 祖母はいつも優しいから、もしかしたら一緒に連れて行ってくれるかもしれないと期待して。

 祖母は森に行くのだと答えてくれた。少年は再び訊ねる。森って魔女の居るあの大きな森? 祖母は静かに頷いた。誰かに会いにいくの? そう訊ねると祖母は眉を下げて微笑んだ。古い友人に会いに行くのよ、と。少年はそれを聞くと馬車に飛び乗った。

 僕も連れていって! いい子にしてるから!

 膝に両手を乗せて背伸びをして言ったけれど、祖母はすぐに駄目だよと首を横に振った。どうしてと訊ねてみれば、祖母は危ないからだと言って、だからお家でいい子にしていて頂戴と少年の頭を撫でた。少年は不満げに頬を膨らませて祖母を見上げた。

 どうしてあの森にはあまり近づいてはいけないって言われているんだろう。遠くから見たことしかないけれど、あんなに緑が綺麗で大きくて格好いいのに。それは危険な魔女が棲むからだって大人は言うけれど、そんな魔女を少年は知らない。だってお祖母様は魔女だけどいつも笑顔で優しいのに。怪我をしたときだって魔法で治してくれる。誰にも気づかれないようにこっそりとだけど。

 少年は祖母が大好きだった。だから魔女である祖母の友人もきっと優しい人だろうと心から思っていた。純粋な好奇心もあった。祖母以外の魔女に会えるかもしれない。こんなの今しかないと思った。

 少年が黄色い榛色の瞳でじぃっと祖母を見上げる。何も言わずに、ただじっと。じっと待った。

 そうしたら祖母は、おそらく根負けしたのだろう、深く長く息を吐いて少年の肩に手をやった。少年の耳元でそっとささやく。馬車の御者には聞こえないようにと。祖母の少し色褪せた金色の髪が頬にかかってくすぐったくて、けれど少年は我慢した。祖母が何を言うのかの方が気になったから。

「森から戻るときに、貴方の記憶を隠します。それでも良いのなら、ついていらっしゃい」



 馬車は森の入り口で停められた。

 祖母は御者に手を引かれてゆっくりと馬車を降りて珍しいこしらえの杖をつく。少年は勢いよく飛び降りて膝をついたけれど、怪我はしなかった。

 少年は祖母と手を繋いで森の中へと歩いていき、少しして馬車が見えなくなると祖母は立ち止まった。つられて少年も足を止める。祖母は静かな声で言った。今から魔法を使いますから、目を閉じていていなさい、と。少年は言われた通りに瞼を閉じた。なんとなく、首から下げているリコーダーに触れていた。

 右手に感じる祖母の手のあたたかさ。左手にはリコーダーの感触。木々を通り抜ける風が耳を、頬を、癖のある髪を撫でていく。足元には下生えと砂利。息をすると土や葉や花の、濃い緑の匂いを感じる。遠くから聞こえる梢のざわめきと何かの鳴き声。

 どきどきしてきて、祖母の手に触れる指に力がこもる。

 澄んで通る声が隣から聴こえ始める。うたのような響きの音。

「──私は世界の魔法によって、あなたをただしく導き『縮める』。あなたの名前はただの森。ただの大地。ただの空。ただの距離。正当なる対価はこの身の魔力。補助となる対価は此処にある電気石トルマリン。これらを糧にあなたを変える。──『縮める』魔法があなたを変える」

 かつん。

 杖をつく音が聞こえたと思ったら、いきなり強く強く全身を前に引っ張られるような感覚が始まって転びそうになった。魔法だ、ということ以外、訳も分からず反射的に足に力を込める。祖母の手を強く握りしめた。

 それは終わるのも唐突で、今度は後ろに振り戻される感覚がしたと思ったらそれはすぐに止まっていて、少年はとうとう祖母の手から指を滑らしてお尻から転んだ。

 思わず目を開けると、大丈夫? 怪我はない? と心配そうに手を差し伸べてくる祖母の姿が見えてほっとした。お尻は痛かったけれど少年はこれくらい平気だよ、と笑って祖母の手を取って立ち上がった。

 お祖母様、なにをしたの?

 友人の家は遠いから、ちょっと近道をしたのよ、と祖母は悪戯っぽく口端を上げた。そうして少年から前方に視線を向ける。少年も同じように前を向いた。

 少し先に、開けた場所に家があった。少年の邸よりはずっと小さいけれど、しっかりとした雰囲気のする木造りの家だ。

 少年は驚いて祖母を見上げる。なんで? さっきまでこんなのなかったのに! 興奮して問いかけると、魔法だからねぇと祖母は楽しげに笑った。

 祖母は杖をついて家に向かっていく。どこか歩き慣れた、いつもより軽い足取りで。祖母の手から手を離していた少年は、置いていかれないようにと走り出そうとして──

 銀色の流れ星を見つけた。

 え?

 少年は流れ星が光った方をきょろきょろと探す。またきらりと輝いたのが見えて、そこは家の正面ではなく裏手の方だった。

 なんだろう、あの綺麗なの。

 気になった少年は祖母から離れて光の見えた方へ走っていく。祖母が気づいて、笑んだ目で見ながら声をかける。家の周りから離れてはいけないよ、と。少年は元気のいい声で返事をした。

 少年が裏手に回った先には、小さな女の子が草のむしられた地面に膝と手をついていた。

 肩口で切り揃えられた銀色の髪の毛が陽を弾いてきらめいている。俯いていて表情はよく見えない。服は白い簡素なワンピース。靴は茶色のクロッグ。足元にはいくつもの丸を組み合わせた、なんだかよく分からない絵のようなものが塗料で描かれていて、真ん中に石が置いてある。

 少年は少し離れたところで足を止めた。

 女の子が顔を上げる。

 大きなあおい瞳が見上げてくる。

「あなた、だぁれ?」



 少年は首から下げているリコーダーにそっと触れながら、ちょっとだけ緊張した。

 こう言ったらこの女の子はどんな表情をするんだろう。驚くかな? 面白がるかな? 喜んでくれるかな? 格好いいって思ってくれるかな? そう思って、言ってみた。

「僕は、音楽家だよ」

「おんがくか?」

 きょとんとした真っ直ぐな反応が返ってきて、少年は困惑した。

 音楽家。少年も詳しくはよく分かっていなかった。でも知らないなんて言うのは格好悪い。なんて言おう。

 結局、分かることしか言えないけれど。

「えーっと……音楽が大好きな人のこと」

「音楽って自鳴琴オルゲルで聴くやつ?」

自鳴琴オルゲルだけじゃないよ。これだって楽器だし」

 そう言って首のリコーダーを持ち上げてみせた。女の子は口を半びらきにして、がっき……と呟いた。あおい目で興味深そうにじぃっと少年を見つめてくる。正確には、持っているリコーダーを。

 少年はリコーダーから手を離すと女の子のところまで行ってしゃがみこんだ。榛色の目線があおと近くなる。

「君は誰? ここでなにをしてるの?」

 問いかけると、女の子の唇に強気な笑みが走った。銀の髪を揺らして勢いよく立ち上がると、胸に手を当てて話し始める。

「わたしはね、すごい魔女になるの! だから魔法の練習してるんだ!」

「……魔女? 君、魔法が使えるの?」

 少年の胸が高鳴った。自然と顔がほころんでいく。魔女。本当に森には魔女がいたんだ、お祖母様以外に! すごい!

 けれど女の子はどこか恥ずかしそうに唇を噛みしめて俯いた。白い頬がわずかに赤くなっている。

「……ほんのちょっとだけだよ」

 その様子が悔しそうに見えて、少年は不思議に思う。魔法が使えるなんてすごいことなのに、どうしてこの子はこんなにも嬉しそうじゃないんだろう。

 上手くいってない、のかな。

 なんとなくそんな気がして、少年は女の子を静かに見つめた。何が出来る訳でもないけれど、なんでもいいから何か力になってあげたいと思った。

 この小さな魔女のために。

「……練習って言ってたよね? どんな練習? この絵を描いて何をするの?」

 少年がゆっくりと話しかけると、女の子は服が汚れるのも気にせずにその場にぺたりと座り込んだ。

 よく見てみれば、女の子の白いワンピースは土汚れだけではなく塗料らしきものも付いていた。

 女の子の後ろ側には塗料の缶や刷毛らしきもの、何冊もの本や石っぽいもの、他にも色々分からない物が置いてある。

 女の子が上を見上げる。

「……『呼ぶ』の」

「何を?」

「なんでもいいの。危ないのじゃないなら。でも、かわいい鳥がいいな」

 鳥を呼ぶ、なんて初めて聞いた。友達が鳥を捕まえてるところなら見たことはあるけれど。呼ぶ。って普通はどうやっているのだろう。手を振って? 声を出して? 分からない。

 女の子が少年に顔を戻し、地面に手をついて言う。

「この青い魔法陣がね、『呼ぶ』魔法陣なの。それで、呪文を紡いだらできるはずなんだけど……」

「呼べない、ってこと?」

 こくり、と女の子がゆっくり俯くように頷いた。上目で少年を見る蒼い瞳は、なんだか今にも泣きそうに潤んでいる。どうしよう、と少年は困ってしまう。力になってあげたいのに、自分には全然分からなかった。

 地面に描かれた魔法陣を視線を落とす。青い丸と文字がいっぱい描かれていることと真ん中に石があることしか分からない。どれかが鳥が読める文字だったりするのかな。この石を食べれたりするのかな。

 お祖母様だったらどうするんだろう。

 そう考えて、気づく。そういえば祖母が魔法陣を使っているのを見たことがない。いつも、呪文だけだ。さっき使っていたように。

「ねぇ、どんな呪文?」

「ふぇ?」

「聞かせてよ。お願い」

「……うん」

 女の子は小声で頷くと、後ろにあった本の山から一番上の分厚い本を取って、栞を挟んでいたページを開いた。蒼い瞳が細められる。

 小さな唇が動き出す。

「──わたしは、世界の魔法によって、あなたをただしく導き、『呼ぶ』。あなたの名前は、ただの鳥。一羽の鳥。正当なる対価は、この身の魔力。補助となる対価は、月長石ムーンストーン。これらを糧に、あなたを『呼ぶ』。わたしの魔法が、あなたを『呼ぶ』」

 ──彼女はうたっていなかった。

 一定で、一律で、ただしく、けれどたどたどしく、言葉を発しているだけだった。

 そういうことか、と少年は一人で納得がいって、くすくすと肩を震わせて笑い出してしまう。

「えっ、なに? なんで笑うの!? わたし間違ってないからね!?」

 女の子が本を抱えておろおろと少年を見る。

「わかってるよ。呪文が間違ってるかどうかは僕にはわからないけど。でもね、君はうたってないんだ。それはわかる?」

 女の子は考えるような間を置いてから、やがてふるふると首を振った。零れそうな蒼い瞳から、ぽたりと雫が落ちる。

 少年の胸がつきんと痛んだ。どうしよう、と思ってから気づく。伝え方を間違えた。泣かせたい訳じゃなかったのに。

「ごめん。泣かないで、君は悪くないんだ。ごめん」

 少年はポケットからハンカチを取り出すと女の子に差し出した。女の子はまたふるふると首を振ると、それからハンカチを受け取った。

 涙を拭いながら女の子はぽつりと言った。

「ありがとう」

 え? と少年は声にならない声で驚く。

 女の子は泣きながら嬉しそうに笑っていた。少年を真っ直ぐに見て。

「よかったぁ、わたし間違ってなかったんだ。よかったぁ……ありがとう、教えてくれて」

 真っ直ぐなその笑顔が、涙に濡れた蒼い瞳が、笑みの形を作る唇が、紅い頬にかかる銀色の髪が、全部がきらきらと光って見えた。

 息が詰まる感じがする。嫌な感じではない。けれど、なんだか苦しい。

 この女の子をずっと見ていたいような、今すぐ逃げ出したいような、不思議な感覚。胸の辺りがむずがゆいような感覚。

 それでも目が離せなくて、女の子がゆっくりと涙を拭う姿をただ見つめていた。



 女の子が少年の方ににじり寄ってきて膝を立てる形で腰を下ろした。真横から覗き込むように顔を近づけてくる。真剣な表情で。

「で。うたうってどうしたらいいと思う?」

「うーん……」

 少年は女の子に顔を向けながら、どうやったらうたえるんだろう、ということよりも、なんでこの子いきなり僕の隣にきたんだろう。という方が気になっていた。

 訊いてみた。

「なんで隣に座ったの?」

「…………なんとなく。だめ?」

「や、ダメじゃないけど」

「よかった」

 嬉しそうに女の子が微笑んだ。すごく、近くで。それがとてもまぶしく思えて、少年はぱっと顔を逸らした。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

 いつの間にか胸がどきどきしていた。それがなんだか恥ずかしくて胸を押さえると、こつん、と手の甲に何かが当たった。

 リコーダー。

 ──あ。

 少年の唇に笑みがのぼる。

「いい方法があったよ」

「うたうのに?」

「うん。ちょっと聴いてて」

 少年は首から下げているリコーダーを両手で持つ。メイプルの木で作られた、幼い少年の手からしても小さくて細くて軽い、ソプラニーノ・リコーダーだ。

 唄口ベックを咥えて息を吹き込む。音が鳴る。いくつか音孔トーンホールを押さえたり離したりして音を確認する。朝と変わらない音がして安心した。

 横目でちらりと女の子を見る。蒼い瞳はきらきらと、けれど不思議そうに丸くしている。

 さあ、どんな音楽を聴かせよう? 学校で習ったあの曲にしようか。それとも妹が好きなあの曲がいいだろうか。街に来た吟遊詩人のお兄さんに教わったあの曲も好きだから、悩んでしまう。

 でも、やっぱり最初はこれにしよう。

 お祖母様から教えてもらったこの曲に。

 思ったら指は自然と動いていた。

 最初は朝に鳴く鳥のような高い音から。

 次は雛鳥がさえずるように高音と低音が連なる。

 大きな強い鳥のような音は出せないけれど、風をきって空を飛ぶ小鳥のような音は出せるから。

 まるで様々な鳥達が次から次へと舞い飛ぶように音階を行き来させる。

 思ったよりすぐに一曲を奏で終わったけれど、曲は変えずにもう一度同じ曲を。女の子が覚えられるように。

 繰り返し、繰り返し、音を奏でる。

 隣を見てみれば女の子は靴の爪先を動かして音に乗っていた。奏でる調子と同じように。小さな唇が動いている。曲を刻むように。

 今度は奏でる曲を変える。吟遊詩人のお兄さんに教わった、ちょっと難しい曲に。

 音階はくるくると高くなったり低くなったりしたかと思えば、調子は速いまま流れきる。そんな曲だ。その曲を繰り返し奏で続ける。指が混乱しそうだけれど、指はちゃんと音を覚えているから大丈夫だ。

 女の子は音を口ずさみながら指で地面を弾いていた。とても楽しそうに。

 また奏でる曲を変える。

 最後は、自分で作った曲だった。

 どこも難しくもなくて、別段速くもない。音の数は少なくて、調子はゆったりと流れていく。

 きっと他の曲より面白くはないだろう。でも、少年はこの曲が好きだった。自分の好きな音を詰め込んだ曲だから。

 隣をそっと見てみる。

 女の子は微笑んだ表情で目を閉じて、ゆっくりと体を左右に揺らしていた。拍節器メトロノームのように。

 それを見て少年も瞳で微笑む。まるで自分の好きが認められたみたいで、嬉しかった。

 最後の音を奏でて、音楽は終わる。余韻が空気にこだまする。

 ふー……っと少年は息をついた。こんなに長い間吹いていたのは初めてかもしれない。

「すごい!」

「うわっ!?」

 耳元で叫ばれてぎゅっと腕を引かれた。

 女の子を見れば白い頬を紅潮させてぐいぐい引っ張ってくる。

「すごいすごい! あなたってすごいんだね! こんなに気持ちのいい音、わたし初めて聴いた!」

「……ありがとう」

 頬が熱いのを感じながら微笑み返した。

 真っ直ぐな言葉が嬉しくて、恥ずかしくなる。誰かに音楽を聴いてもらって、こんなにも喜ばれたのは初めてだ。

 女の子は少年ごと引っ張って立ち上がった。裾についた土がぱらぱらと落ちる。少年の両手を取る女の子の顔には、花が咲くような満開の笑顔。

「聴いてくれる? 今ならうたえる気がするから!」

「うん、喜んで」

 女の子は爪先で地面を叩く。

 それは音で、音階で、音楽だった。

「──わたしは、世界の魔法によって、あなたをただしく導き『呼ぶ』。あなたの名前は、ただの鳥。小さくさえずる一羽の鳥。歌をうたう一羽の鳥。翼を休める一羽の鳥。正当なる対価はこの身の魔力。補助となる対価は月長石ムーンストーン。これらを糧に、あなたを『呼ぶ』。──わたしの魔法があなたを『呼ぶ』!」

 うたが聴こえた。

 仲間を呼ぶように高く鳴く、青い小鳥のようなうたう声が。

 唐突に、足元の魔法陣が光を帯びる。青く、蒼く。その光は明るいけれど目をくことはなく、瞬きの間にふっと消える。

 ──ぴちちちっ。

 鳴き声がした。鳥の。本物の。

 二人で空を見上げれば、青い空から一羽の鳥が舞い降りてくるところだった。

 黒いつぶらな瞳。胡桃色の羽根。白い腹。真っ直ぐな背。

 その鳥は二人の丁度目の前の魔法陣の上にまった。

「ヒバリだ……!」

 女の子が声をあげる。春によく聴こえてくる鳴き声で、名前だけは知っていたけれど姿をちゃんと見るのは初めてだ。ヒバリ。羽根が自分の癖毛と同じ色をしていてなんだか嬉しい。

 ヒバリはちょんちょんと何歩か女の子の方に歩いてくると、ばさっと羽根を広げて飛び立った。

「わあっ!」

 女の子の横を素早く通り過ぎて、ヒバリはそのまま頭上を旋回してどこかへ飛んで行く。後ろ姿が見る間に小さくなって、木々の向こうに消えていく。

「いっちゃった……」

 ぽつりと女の子が呟いた。けれどそこに淋しげな雰囲気は無くて、代わりに満足げな響きがあった。

 少年は空の向こうを見たまま、笑みの形をした口を開く。

「上手くいってよかったね」

「うん。ありがとう、あなたのおかげだよ」

 少年は首を振って女の子を見つめた。

「違うよ、君が頑張ったからだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 そっか、と女の子がくすぐったそうにはにかむ。

 その笑顔はなんだか大切な宝物にしたいくらいだった。



 行っちゃうの? と女の子が家の前で淋しげに眉を下げて少年をじっと見てくる。その隣には母と同じくらいかそれよりも下に見える、葡萄酒色の髪が綺麗な女性が立っていた。女性は女の子と手を繋いでいる。きっとこの人が祖母の友人の魔女なのだろう。

 祖母の隣に立って少年は、曖昧に微笑んで、ごめんね、とだけしか返せなかった。胸が、きしむ。女の子から目を離せたらきっと楽になれる気がするのに、離せない。

 また会える? と女の子は言った。分からないとは言いたくなくて、だから、きっと会えるよ、と返事をした。女の子は嬉しそうに笑ってくれたから、それだけで安心する。

 女性が頭を下げると女の子も倣うように頭を下げる。祖母と少年もそれに返した。

 祖母が肩に手を置いて促してくる。この場所から去ることを。祖母はもう一度一礼して踵を返す。杖をつく祖母の後に続いて、けれど少年は一度だけ振り返った。

 銀色の髪の女の子は、蒼い瞳を目一杯に潤ませて、けれど零すことはなく少年を見つめていた。



 祖母と少年は森の中をしばらく歩く。ゆっくりと。少しでも遅らせたくて少年は祖母の後ろを歩く。

 少年は歩きながら訊ねた。記憶を隠すってどういうこと? 忘れちゃうの? と。

 祖母は柔らかい声で応えた。忘れないよ、ただ、心の奥の方に仕舞い込むだけで。

 少年は再び問いかける。祖母を見上げつつも、ほとんど独り言のような形で。あの子は僕のことを覚えててくれるかな? 祖母は少年を見返して微笑んだだけだった。それだけで少年は分かってしまった。きっとあの女の子も記憶を隠されるんだろうな、と悲しくなる。胸が痛むのにやり場がなくて苦しかった。

 止まりなさいと言われて立ち止まる。森の中。周りにあるのは木や草花ばかりで自分が今どこにいるのかも分からない。

 青空を見上げて耳をすませた。ヒバリの声は聴こえない。胸元のリコーダーに触れる。あのヒバリはどこへ行ったんだろう。僕とあの子のことを覚えてくれているだろうあのヒバリは。

 祖母の手が後ろから少年の瞼をそっと下ろす。

「──私は世界の魔法によって、あなたをただしく導き、記憶を『隠す』──」

 優しくうたう祖母の声はまるで子守唄のようで、少年の意識はゆっくりと途切れていく。

 記憶が隠れていく前に、微睡む意識の中で浮かぶ顔があった。さよならのときの悲しそうな表情じゃなくて、ありがとうと笑っていた、あの子の。

 名前、なんて言うんだろう。

 今度会えたら、ちゃんと呼んであげたいな。

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小さな音楽家と小さな魔女 碧音あおい @blueovers

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