女は迷走していた。

              ◆



 『逆行』の回数を重ねる度、戻る基点がどんどん昔へ、昔へと遡った。

 だから、『一度目』の出会いより、ずっと前に出会うことが出来た。

 生い立ちを知ることが出来たのは『三度目』。あの人に告白して、恋人になれたのはその後。でも数回だ。

 恋人になってもならなくても、私が告白するたび、巻き込まれるぞ、と散々あの人に忠告されたっけ。

 自分はやさしくはない、ろくでもない人間だとも言っていった。

 それでも私、言うことは聞かなかったけど。



『逆行』は私の意志ではなく、勝手に行われていた。正直、なんでこんなことになってるか、私が一番知りたかった。

 でも、その状況を甘んじて受けた。

 あの人は、生きるためとはいえ犯罪もおかしていたし、目立つから絡まれて喧嘩もよくしてたし、口も悪かったけど。子どもにやさしかった。女を暴力で従えさせるのも許さなかった。動物もののヒューマンドラマにむちゃくちゃ弱かった。私にとっては、かわいい人。それが全てだ。

 ……どうしてこの人に、幸せな子ども時代が与えられなかったんだろう。


 神様仏様、私を子ども時代まで遡らせてください。

 それで、自分があの人より喧嘩に強くなったら、私はあの人を守れる。


 誰もが一度は描く、荒唐無稽なヒーローの夢を、神様仏様は叶えてくれた。


 私が飛び膝蹴りで倒し、とどめの先生の掌底撃により伸されたクソバカ親父は、調べたら虐待の他にも色々やってることがわかり。先生と先生が雇った有能な弁護士により、特別養子縁組を勝ち取った。先生が既婚者で、あの人が六歳未満で、おまけにクズ親父って実証されたためだ。

 優しくて強くて行動力ある大人がいた。本当に、この『逆行』は、ものすごく恵まれている。だから、余裕を持つことが出来るようになって。ようやく考えることが出来た。自分が、何をしでかしたのかを。


『逆行』したことを、後悔はしない。

 でも、何度もあの人に告白されて。

 嬉しいと思うたび、怖くて聞かなかったふりをした。


 今回より前の『逆行』の記憶と重ね合わせる。

 あの人は私より強かった。暴力が嫌いな人なのに。

 でも今は、多分真面目に稽古してる私の方が強い。

 私は、あの人に勉強を教えていた。初期の『逆行』は塾で講師をやっていたから。勉強熱心で、楽しかったし、嬉しかった。

 それが今じゃ、数学の最前線を渡り歩く人になっちゃって。逆に中学高校は私が数学を教わっていたくらいだ。


 雪原を何度も歩けば、やがて足跡で雪は固まる。

 真っ白だった場所は泥で汚れ、別の場所のようだ。――『逆行』というのは、それに近い。

 変わってしまったあの人が、私は好きで。……でも、彼の何が好きなんだ? 育つ環境が変われば、性格も変わるだろう。最初の私は、最初の彼の何が好きだったんだろう。

 人智を越える力で、他人の人生変えてしまった。だったら私は、私の好みになるよう、あの人の性格とか、変えてしまったんじゃないかって。あの人の弱みに付け込んで、こちらに振り向かせたんじゃないかと。

 そう思ってしまったら、頷くことなどできなかった。


 ……なんて、悲壮なこと考えてるけど。

 結局のところ、自分に自信がなくて、きっとあの人ががっかりするであろう自分を認めたくないだけだ。悲劇のヒロインぶろうとする人大嫌いなのに、自分だってそういうところあるから、ため息が出る。


 大学の授業で、何故か仏教学をとった私は、龍樹ナーガールジュナの「空の思想」を学んだ。全てのものは他のものと連鎖し、影響し合って出来た事象。そこに独立した本質なんてものは存在しない、という考えだ。椅子と名付けたものは踏み台にも使えるし、箸と名付けたものは遠くの国で簪としても使われている。

 人間も同じだ。人の関わりによって、話すことも、口調も、顔も、態度も、全部違う。

 まったく汚点の無い人はいない、でも高潔さを持っていない人もいない。

 キレたら皆怖いのは同じだし、優しさを持たない人もいない。

 裏切らない人はいないし、裏切るだけの人もいない。


 だから、怖かったのだ。

 殆ど不意打ちのプロポーズだった。私はお得意の聞き間違えをするつもりだったのに、そのまま打ち返したのだ。「私の何が好きなの」って。

 あの人は迷わず、「やさしい」と答えた。

 優しくて、公平で、困っている誰かを見捨てることなんて出来ないと。


 ――優しいわけがない。

 どれだけ自分のわがままで、あの人を殺し続けたか。また『逆行』できるという油断が、どれだけあの人を殺し続けたか。

 それなのに、自分の保身で、あの人の好意をこんな最低な形で踏みにじっている。応える覚悟がないくせに、なあなあにして逃げているのは、自分が「追いかけて欲しい」と願っているからだ。


 自分は、こんなにも面倒くさい奴だったかな。

『一度目』の私はバカだったけど、もっと思い切りがいい奴だった気がする。










 彼が公民館から離れた。私は公民館の屋根から降りる。

 屋根に積もっていた雪が一緒に落ちた。コートについた雪を払う。

 これからどうしよう。遠くに行きたいけど、まず家に戻って……。


「よーやく、降りたか」


 ……心臓が多分止まった。一瞬。

 聞きなれたテノール。一般の男性より高いその声は、好きな人という欲目を除いても良い声だ。

 ――ただ、めっちゃ不穏な声だがなっ!!


 反射神経、生存本能のままに逃走。だが接近時点でほぼゼロ距離、すぐに捕まる。


「はーなーしーてー!!」

「んじゃ逃げんなよ⁉ そんでちゃんと話せ!」


 話せるかバカ! と心の中で返す。


 いいから離して、いやお前が話せ、とどっちの「はなせ」なんだかわからない押し問答を繰り返していた時。



 突然、彼が私の手を離し――思いっきり、突き飛ばした。

 私は、そのまま後ろへ飛び、尻から落ちる。

 目は閉じなかった。閉じてはいけないと思った。


 車のブレーキ音が響く。

 私たちがいたのは、歩道だ。なのになぜ、車がつっこんでくるのか。





 突っ込んできた車が、彼の身体を吹っ飛ばすのを、私は見ているだけだった。

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