女は遡っていた。

                  ◆


 あっぶなーい……。


 とっさに公民館の屋根の上に飛んで良かった。まあ、上を見たら一発でバレたけど、あの人はさっきから下ばかり見ている。こちらに気づく様子はナシ。

 でもまさか、この短時間でここまで追い上げてくるとは思わなかった。すごいな、男の子。


 ……いや、当然か。

『本来のあの人』は、『私』なんかよりずっと強くて足が速かったのだから。



 なんでこうなってるかと言うと。

 この地方では、珍しく積もるほどの大雪で。一面の銀世界、せっかくだから散歩しようと誘われて。

 そんで、公園で、あの人にプロポーズされた。


 それで今、私は逃げている。

 あの人にずっと、黙っていることがあるからだ。

 私はあの人の命運を変えた。

 私はそれを、いわば『逆行』して変えてしまったのだ。







 本来のあの人の人生は中々にハードなものだった。母親が不倫して蒸発、父親は母親似のあの人に対して家庭内暴力、十一歳で自立、ほぼブラックな仕事をし、果てには少年院へ。


 そんな『一度目』の人生で出会ったのは、バイト先の塾からの帰り道、男に襲われそうになった私を、たまたま通りかかったあの人が飛び膝蹴りで助けてくれた時だ。

 恩を感じた私は、あの人の元に押し掛けた。会うたびに、あの人はものすごく嫌そうな顔をした。そして何度も拒絶した。当たり前だ。あの人の人生を考えると、他人を警戒するなという方がおかしすぎる。それでも頭がお花畑な私は、助けてくれた彼に運命を感じていた。彼がどんな環境で生きているのかも察せず、普通に生きているちょい不良の兄ちゃんだと思っていたから。

 ――直後に私は後悔する。なんていう、浅はかな行動だっただろうと。



 ある日。

 あの人が、私の目の前で、ナイフで刺されて倒れた。

 どうしてそんなことになったのか、何が起きたのか、今となっては覚えていない。




 気が付けば、『二度目』が始まっていた。

『記憶』が戻ったのは、彼に会う二週間前。

 最初は、夢でも見ているのではないかと思って、同じ轍を踏むことになった。つまり、また同じように男に襲われかけて、そこをたまたま通りがかった彼に助けてもらった。

 でも、ここまで一緒だと、私は『私のせいでこの人が死ぬのではないか』と思って、お礼の言葉もそこそこに近づくことが出来ず。……正直、『夢』だと思っていたから詳細を覚えていなかったっていうのもある。

 けれどまたあの人に出会った。襲われた道はもう二度と怖くて使えず、かといっていつも同じ道を通るのも怖かったので、帰り道はランダムだった。あの道で会ったのは、偶然。

 雨なんて降っていないのに、あの人は濡れていた。バケツに溜めた水でもぶっかけられたんだろうかと思うぐらい、頭からバシャアと。……通り過ぎて、でも結局見過ごすことが出来なくて、きびすを返して持っていたタオルを渡した(雨が急に降って来た時に使うものだ)。


 それから二日後ぐらい経って、洗ったタオルと、ちょっと上等そうなお菓子を持ってあの人が塾までやって来た。いくら田舎で塾なんてものが少ないとはいえ(駅前まで範囲を延ばしても、三つしかない)、よくわかったなあと思う。

 返ってきたタオルからは、柔軟剤の匂いがした。

 それから、帰り道は危ないと言うことで、途中まで彼が帰り道に付き合ってくれた。それはルーチンワークとなって。

『二度目』の人生は、彼の生い立ちを知るまでには至らなかった。

 でも、見た目に反して生真面目で、勉強が好きだと言うこと。家庭の事情で、あまり勉強できなかったこと。図書館に行くのが好きなこと。私が塾でバイトをしていたから、聞けたことが沢山あった。


 だから多分、油断していたんだ。私も、あの人も。


 バイトの帰りではなく、たまたま夜の街の中で、彼の姿を見つけた。

 今思えば彼は、辺りを見回して物陰に隠れていた。何かから逃げているようだった。

 でも私は、本当に頭が悪くて、鈍くて。

 大きな声であの人の名前を呼んでしまったのだ。


 あの人が、困ったような、怒ったような、悲しんだような顔を向けた時。

 男が、まっすぐ走ってきて。

 ……あの人は、そのまま倒れて死んだ。




 それから何度も、私はあの人と会うことになる。

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