第2話 プロローグ 後編

 良い香りがして、目が覚めた。

 紅茶の良い香りが漂う朝はいつ以来であろうか。

 少なくとも、十和堂を先代から引き継いでからは、こんなことはなかったような気がする。

 いや、なかったと断言できる。

 ここに来るのは、希望を、夢を失ってしまった生き物かその成れの果て。

 あるいは、未練を残し次の世界へと旅立てない生き物の影だけなのだから。

 あんな、希望を、夢を失って果てる直前の。

 それも“人”がここに来るのは、とても珍しい。

 少なくとも、引き継いでからの数年、あるいは数十年の間にはなかったことなのだ。

 

「芦谷さん、おはようございます」

「明音ちゃん、おはよう。いい匂いだね」

「ごめんなさい、勝手にいろいろ使ってしまって」

「いやいや、いいんだ。助かるよ。それよりも、今日は少しは眠れた?」

 

 はい。おかげさまで、という彼女の眼の下にはクマができていて。

 やはり、そううまくはいかないものだと、自嘲する。

 

 それじゃあ、いただこうか。

 彼女が焼いたトーストと目玉焼き、そして少し苦めのコーヒーを口にする。

 

 

 

 

 

 お互い無言のまま朝食の時間を過ごす。

 私が作った朝ごはんがおいしくなかったのだろうか。

 本当に私はここにいて良いのだろうか。

 

 テレビなんてものは電波が入らないため、この食卓には存在しないらしい。

 ただただ、窓の外の風のような音だけが聞こえる。

 この微妙な空間が、なんとなく小学校の時の、ずっと暮らしてきたあのアパートの一室の食卓を思い出させる。

 芦谷さんが何かを言いかけたとき、扉に取り付けられた”鐘”がなる。

 お客さんだ。いまいきます、とそう言って彼は席を立った。

「明音ちゃん、これから君は十和堂を手伝ってもらうことになるのだから、一緒に来なさい。このお店のお客さんがどういったものかを見ておくんだ」

 はい。

 そういって、彼の後ろをついていく。

 すると、あの時の私がこのお店にやってきたときの書架が立ち並ぶ景色ではなく。

 空が炎で赤く染まった街へとたどり着いた。

 たくさんの倒れている人の真ん中で、たくさんの「助けて」「痛い」の真ん中で救おうと奮闘する影が見える。

 影が動いて誰かの治療をしている間にも、助けて、痛いの言葉はどこからか運ばれてきて、そして、消えていく。

「芦谷さん、これは・・・」

「うん、これはお客さんの後悔。救えなかった命の数だけ後悔をしてしまったお医者さんの記憶だね」

 くすんで光を発さなくなってしまった本をぱらぱらと捲りながら教えてくれる。

 さて、お仕事はじめようか。

 本を閉じると、彼は影へと近づいて行って。

 

 先生、少しお休みください。

 

 誰だね、君は。私は、ここにいるものの命を救わなければいけない。

 邪魔はしないでくれたまえ。

 

 ええ、ですが。

 このままでは、あなたが先に死んでしまいます。

 救える命も救えなくなってしまいます。

 空襲は、まだ続きます。

 せめて、少しお休みください。

 

 だが・・・、

 

 まわりをご覧ください。

 お医者様はあなただけではないのです。

 彼らに任せて、少しお休みください。

 

 そうか、休んでいいのか。

 

 はい。


 そうか・・・。

 私は十分に命を救えた、かね。

 

 ええ、よく頑張ったと思います。

 

 そう、か。

 すこし、やすむ、としよう・・・。

 

 影は、皆を救おうと奮闘した立派なお医者さんは。

 その場で座り込むと、薄れ、空へと溶けていった。

 

 

 不思議な光景だった。

 芦谷さんは、口を動かしていない。

 だが、確かに会話をしていた。

 音にならない声。

 耳ではなく、心へ語り掛ける声で。

 

「明音ちゃん、帰ろうか。彼は、後悔だけを抱くことなく逝けた。あとは、運び手に任せよう。俺たちの仕事は終わりだ」

 音が聞こえて、我に返る。

「あ、あの。芦谷さん、いまのは・・・?」

 

 

 

 

 

「あ、あの。芦谷さん、いまのは、今の声は一体・・・?」

「明音ちゃん」

「は、はい」

「とりあえず、帰ろう」

 そう言って、先ほどまでくすんでいた本から栞を抜き取る。

 それと同時に、少しずつ周囲の風景が滲んでいって、十和堂の食卓へと戻ってきた。

 いつもの光景だ。

 しかし、なぜ彼女には声が聞こえた?

 確かに、生と死の狭間にいる彼女ならば、たまに声があちら側の声へと変わってしまうことは理解できる。

 だが、聞くとなると、話は別だ。

 生きている部分があれば、生身の人間であれば、あの声は聞こえないものだ。

可聴領域を超えた、星の歌のようなものだからだ。

聴覚ではとらえることができない。

そして、もしも生まれつきそんな力を持っていたのなら。

その声を使えれば、苛められるなんてことにはならなかったはずだ。





「うん、明音ちゃんには、声が聞こえていたんだね?」

「は、はい」

 芦谷さんの表情はとても真剣なもので、

またなにかやってしまったのかな。と不安になる。

「いいかい、あの”声”は相手の心を直接揺らして意思を伝える方法だ。使い方によっちゃ生き物を操れる」

「生き物を操れる?」

「もし、心の中にいきなり、お腹がすいた、という言葉が浮かんで来たら、それは誰の気持ちだと思う、自分だと思うだろ?」

 そうやって、生き物を操ることができるんだ。と自嘲気味に芦谷さんは言った。

「まぁ、それはさておき。俺の仕事、十和堂の仕事は基本的には死者の物語を書き換えて、悔いなく次の物語へと進めるようにすることだ。お客さんが納得するような方向にな」

「納得、ですか」

「そう、納得させることが仕事だ。例えば、小説を読んでいて、唐突に主人公に理由もなく宝くじが当たってなんでもできる、なんて展開になったらちょっと意味が分からないだろ?」

「まぁ、そうですけど。書き手がそれを望んでいたら納得してしまうのでは?」

「いい質問だ。そう、それができるのであれば、さっきのお医者さんの物語は、周りの全員を救ってしまえば解決ということになる。だけど、そうはいかない。なぜなら、生き物の数だけ物語があって、それらは全部つながってしまっているからだ」

「なる、ほど。つまり、そういう話にしようとするためには、あの場にいたすべての物語を書き換える必要があると」

「そういうことだ、しかも、その本を書架から全部探してくる必要がある」

「それはちょっと無理ですね」

 あの書架の群れを思い出し、それの中からあたりを探す作業を想像してしまった。

 どう考えても気が狂うような時間がかかる、と思う。

「そう、無理だ。一つだけ、それを無視して書き換える方法があるがそれは置いておこう。どうせ、やることはないからね」

「はぁ・・・」


「そして、もう一つ。無理な物語は、価値が下がってしまうんだ」

「価値?」

「そう、価値だ。物語には価値がつけられる。その価値によって彼岸で買えるものが変わってくる。高い価値の物語持っていれば、その次の旅先を決められたり、持っていくものを買うことができる」

「でも、それって」

「そう、一度価値の低い状態の物語を元手に次の旅に出ることになってしまったら、そこから価値の高いものを作り出すのは並大抵の努力では済まされない。もちろん、ランダムで次の旅路を決めるという方法もあるが、外れを引けば目も当てられないような賭けだ」

「はずれ、だとどうなるんですか?」

「・・・、旅が終わる」

 

 旅の終わり、魂の終わりだ。

 そう教えてくれた芦谷さんの表情は、何か耐え難いものに耐えるような辛いものだった。

 

 

 

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