果てに、世界を綴る

ねこの足音

前章 旅の始めに

第1話 プロローグ 前編

 この世界は、悲しみであふれている。

 それは、最愛の人を失った悲しみかもしれない、小さいころから一緒にいたペットを失った悲しみかもしれない。戦争に子を送り込まないといけない悲しみかもしれない。あるいは、救えなかったことに対する後悔かもしれない。

 なんにせよ、この世界は悲しみで満ち溢れている。

 本を開けば、理想が綴られた世界がそこに広がっている。悲しみが存在しない、そんなご都合主義の世界も中には存在している。

 でも、だ。

 現に、運び手に愚かさとつながりの世界と呼ばれるこの世界には。

 悲しみがそこらかしこに溢れている。

 一体、だれがこんな物語を綴ったのか。

 悲しいことに俺という個には知るすべがない。知るすべがあったとしても、理解できるだけの思考能力もないだろう。

 ああ、ここにも悲しさが存在している。

 この世界、太陽系の地球という惑星を起点としたこの世界には、悲しみがあふれている。

 

 

 ちりんちりん・・・

 店の扉につけられた鈴が鳴る。

 お客さんだ。今日は、生者か死者か。どちらのお客さんがやってきたのだろうか。

 はいはい、今行きますよ、と声を出しながら立ち上がる。

 この店に来る人は、来られる人はその大半、大多数が自分ではどうしようもない悲しみか傷を負った人だ。今日のお客さんは、少しでも小さな悲しみや傷でありますように、と。あんまり届くことのない祈りをこの世界の執筆者に捧げる。

 

 

 

 不思議な、店だった。

 生きることが辛くなって、死ぬこともやっぱり辛くて。

 ただ、ただ。消えてなくなってしまいたい。そんな思いを抱えながら、私は街を歩いていた。そんな時に、ふと見つけた店だった。古びた木造の建物に、達筆すぎて読めない看板が掛けられている。そんな店から何故か目が離せず。

 誘蛾灯に集まる蛾のように、ふらふらと吸い寄せられていった。

 なぜだか、そこに救いがあるような気がして。

 扉を開いた。

 そこには、沢山の本が詰まった書架が並べられていた。たくさんある本は、きらきらと輝くものや、くすんだもの。弱弱しく明滅しているようなものなど。色はそれぞれでも、そんな本ばかりが並べられていた。

「はいはい、今行きますよ」と奥からとても面倒くさそうな声が聞こえてきた。

 買うつもりもお金も持っていないのに、店に入ってきて、やっぱり迷惑だったと思い急いで店から出ようかと考えた。しかし、後ろを振り返るとさっき入ってきたはずの扉は消えていて、ただ延々と書架が並んでいるだけだった。

「うん、今回も結構な重篤患者さんだ。まったくもって面倒くさい。まぁ、なんにせよ。いらっしゃい、十和堂へ。俺は、芦屋 裕。この狭間の古書堂の店主をやっている。君は?」

 明音、冬月 明音・・・です。と不思議と声が出た。

「明音ちゃんか・・・。いい名前だね」

 そんなこと、ないです。

 口からそんな言葉が漏れると、芦谷さんは不思議そうな顔をして。

「いやいや、いい名前だよ。少なくとも俺はそう思った」

 そう、ですか。

「うん、そうだよ。あー、お客さんにこんなことを頼むのは申し訳ないんだけどさ・・・」

 芦谷さんはバツが悪そうにしながら言葉をつづけた。

 ごめん、ご飯を、作ってくれ…。

 そして、盛大にお腹を鳴らせたのだった。

 

 

 

 ああ、これは重篤だ。彼女を一目見てそう思った。

 やつれた顔、手入れをすることを忘れてしまった髪の毛、何の光も灯さない瞳。

 つい、面倒くさいなぁ。と思ってしまった。

 でも、このまま放置しておくほうがもっと面倒くさいことになってしまう。

 生きながらに死んでしまった物語は処理が大変なのだ。

 とりあえず、彼女にはご飯を作るという役割を与えた。

 彼女が店の台所を使っているうちに、彼女の物語を見つけ出して、読んでみる。

 あの状態にまで消耗してしまった、鈍色に錆びてくすんでしまった物語は、鍵がかかっておらず、特別なことをするまでもなく読み解ける。


 冬月 明音、生まれた時は、両親にどんな時でも明かりがあるように、と。

 願いを込められて名付けられた、はずだった。

 彼女が5歳の頃だ。

 彼女の父親が不倫し、それが原因で家族が崩壊した。父親は出ていき、母親は明音に当たるようになった。

 よくある話だ。少なくとも、俺が読むお客さんの物語の中では結構多いものだ。

 だが、そんな俺から見れば良くある話でも、彼女にとってはあってはいけない物語。

 そんな彼女の物語を読み解いていく。


 その一年後。小学校に入ってからだ。

 子供という生き物は無邪気で残酷なものだ。

 無邪気に他人の物語を落書きして、ページを破り散らかして、そのままにしていくのだ。

 そう、彼女は片親ということで、仲間外れにされたり、苛められたりされたのだ。

 些細な喧嘩から始まった。

 おとうさんがいないくせに。

 そんな無邪気と呼ぶには、あまりにも鋭利な言葉のナイフは彼女の心をズタズタに切り裂いてしまった。

 泣いて、おとうさんが居たはずの、楽しかったはずの家へと帰った。

 おかあさんは、それを一瞥して、何泣いてんのよ。鬱陶しいわね。と呟き、またテレビのほうへと視線を戻した。どうでもいいようなお笑い番組で馬鹿笑いをするおかあさんを見て、「うっとうしい」の意味は分からなかったけれども、彼女は悟ってしまったのだ。私の居場所は、もうここにはない、と。


 彼女はそれから居場所を探した。

 先生に相談した。けれども、事なかれ主義の先生は何もしてくれなかった。それどころか、そんなはずはない。自分の子を愛さない親がいるもんですか。と無責任な言葉のナイフを突きつけた。

 彼女は授業に出なくなった。

 図書室でただ、ひたすらに物語を読み続けた。

 もしかしたら、この沢山の物語の中に。

 自分の求めた答えを、居場所へとたどり着ける方法があるかもしれないと。

 そう信じて、朝から夕方に帰る時間までずっと、ずっと物語を読み続けた。

 おかげで、文字を読み書きする力は身についた。

 紛れ込んでいた算数の本から計算能力を見つけた。

 難しくない歴史の物語から、様々なことを学んだ。

 だが、そんな図書室もいつまでもいることはできなかった。

 授業に出なくなったことを、おかあさんに伝えられたのだった。

 そして、怒られた。図書室への立ち入りを禁止されてしまったのだ。

 彼女は再び居場所を失った。それが小学2年生の春のこと。

 それ以来、彼女は校門をくぐることはなく、通学路の途中の本屋と図書館に入り浸るようになった。

 毎日、毎日。

 晴れの日も、雨の日も、雪の日も、台風がこようとも。

 毎日、毎日。

 学校がない日も、家には居場所がないからと図書館か本屋へ。

 幸いなことに、しばらくの間は彼女には居場所があった。

 本屋のお爺さんは気難しいが、彼女には優しかった。

 大分高齢のお爺さんだった。台風がこようとも、必ず店の戸を叩かれたら、彼女を店内へと迎え入れてくれた。むすっとした顔ではあったが、必ず彼女が好きそうなお菓子を用意してお茶を淹れて待っていてくれた。

 それから、三年。お爺さんは彼女に居場所を作ってくれた。

 探しに来た学校の教員から彼女を守ってくれた。

 

 小学5年の秋のことだ。

 お爺さんは、亡くなった。

 突然のことだった。一緒にいつも通りに本を読んで、お茶をして・・・。

 いつも通りにまた明日、と言って別れる。

 そんなはずだった。

 

 お爺さんは、お茶を飲んでいる途中にいきなり咳き込み、血を吐いて倒れた。

 彼女は慌てて救急車を呼んだが、遅かった。

 救急車の中でお爺さんは、彼女を見つめ。

 ごめんな、と言い、一枚の栞を手渡して息を引き取った。

 

 そうして、また彼女は一人ぼっちになってしまった。

 図書館も、市の方針で駅前の大きな図書館へと統合されてしまい、簡単にはいけなくなってしまった。本当に彼女には居場所がなくなってしまったのだ。

 

 中学生になっても、その環境は変わることなく、いじめだけが酷くなっていった。

 彼女の周りには、味方は誰も見当たらない。

 そうして、高校生になるはずだった今年の春。

 おかあさんは、何の書置きもせずに出て行った。

 1週間後、大家さんに立ち退きを命じられ、住んでいた部屋には戻れなくなってしまった。

 

 そうして、街をさまよっているとき、この古書堂を見つけたのだった。

 彼女の物語は、その先がまだ真暗に塗りつぶされており読むことはできない。

 当然だ、彼女の物語はまだ綴られている途中なのだから。

 だが、暗いページには、どんなことを書いたとしても目立たたない。この物語を記すのに、白色のインクは存在しないのだ。

 

 

「で、できましたよ。簡単なものしかできないですし、お口に合うかはわからない、ですけど…」

 明音ちゃんの声がして、彼女の物語から俺は引き戻された。

 ご飯に味噌汁、サンドピカタ、冷ややっこ。

 いただきます、と言って、サンドピカタを口に入れる。

 正直、驚いた。

 おいしい、と声が漏れた。

「本当ですか・・・?なら、よかったです」

「うん、明音ちゃん。君の料理の腕は誇っていい。間違いなくおいしいよ」

 

 

 

「さて、本題に入ろうか。俺は、隠し事が得意じゃないし嘘をつくのもあまり好きじゃないし不器用だから、言ってしまうが。君の身に起きた不幸は全部読ませてもらった」

 彼女は、困惑しつつ、涙をあふれさせる。

「これが、君の物語だ。不思議だろう?人間の人生は、たった一冊の文庫本サイズに収まってしまうんだ」

 錆びてしまってる・・・

「そうだ。錆びてしまっているんだ。厳密には金属ではないから錆びではないけれどね。まぁ、そんなことはどうでもいいんだ。重要ではない。ここは十和堂。元記憶屋の古書堂だ。そんなここへ辿り着けた、辿り着いてしまった君は、君にはいくつかの選択肢を提示しよう」

 選択肢・・・。

「そう、選択肢だ。だが、提示するだけだ。今の君では、いくつ提示しても、恐らく一つの選択肢しか目に入らないだろうから、選ぶのはまだもう少し先だ」

 もう少し、先・・・。

「そうだ、少なくとも、君が他の選択肢に明かりを当てられるようになるまでは難しい。そうなるまでは、十和堂のお手伝いでもしてもらうこととしよう。それじゃあ、一つ目の選択肢からだ」

 ・・・はい。

「まずは一つ。平穏と悠久の世界、と言ってもこの名前が本当に正しいのかは知らないけれど。とにかく、そこへ行って、ただ何にも干渉することもされることもなく漂い、眠り続けること。あんまりおすすめはしないけれど、今の明音ちゃんならこれを選ぶのだろうね」

「そう、ですね・・・」

 彼女は、消えてしまいたいという願いを持つ彼女ならそう選んでしまうだろう。

 

「次、この世界で生き続けてみる。とはいえ、だ。さすがに、物語がさびてしまったままじゃ今と変わらない。その錆びを落としてから、元に戻るというわけだ」

 ・・・。

 彼女からの返事はない。

「まぁ、そういう反応だろうさ。次に提示するのは、ちょっと特殊な世界なんだ。星雨と希望の世界と紙飛行機と願いの世界。どちらも、代償を払って願いを叶えることができる世界なんだけどさ、これまた難しくて。それ相応の努力が必要になるだろうね」

「・・・願い、叶うんですか?」

「叶いはするさ、なんたって紙飛行機と願いの世界で願いをかなえた人を俺は知っているからな」

「・・・そうですか」

 一瞬、彼女の瞳に光が差したように見えたが、また真暗な瞳へと戻ってしまった。

 

「まぁ、これ以外にも世界というのは無数にあるんだ。信じようが信じまいがそれは明音ちゃんの自由だけどもね。いずれにせよ、君には暫くこのお店を手伝ってもらわないと困るんだ。悪いんだけどもね。これには拒否権はないんだ。何をするにしても、このお店は入ってしまった時点で支払いをしないといけない。そういう性質になっている」

「支払い・・・」

「そう、支払いだ。残念ながら、明音ちゃん。君に今、支払い能力はないだろう?もちろん、ここまですべての物語を支払いに使うことも可能だが、個人的にはそれはお勧めしない。なぜなら、人が、生物が、あるいは非生物でも死んだら辿り着く場所、終わりと始まりの世界という場所でこそ、その支払い方法はされるべきものなんだ。もし、他のところでこの支払方法を使ってしまって、記憶を使い切ってしまえば、君は何物でもない何かになり果ててしまう。だから、アルバイトだよ」

「アルバイト・・・、私じゃあ、接客とかはできない、ですよ」

 

 この子は、卑屈な性質を持ってしまっている。

 このままでは、彼女のさびは取れないだろう。

「なにも接客をする必要はないさ。君にやってもらいたいことは、ご飯を作ってもらうことと、俺の仕事をいくつか手伝ってもらうんだ。そこに接客は含まれていない」

「そうなん、ですか?」

「そうとも、自慢じゃないが俺は面倒くさがりでな。料理をするのを面倒くさがって餓死しかけたほどだ。だから、料理を作ってもらう。というのはとてもとても大切なお仕事さ」

「そう、なんですか・・・。わかりました。その、これからしばらく、よろしくおねがいします」

 まだまだ、不安に押しつぶされそうな彼女の手を握り、

「よろしく、世界には物語があふれている。君の物語はまだ、はじまったばかりだ」

 彼女に、役割を。

 居場所を押し付けたのだった。

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