そして君の眠る夜
「父さん、母さん……」
「シモラーシャ?」
冴え冴えとした月の輝く夜。
マリーの隣でマントにくるまって眠る彼女の唇から、うめき声とも泣き声ともつかない言葉がもれた。
この日、いつもは二人に影のように寄り添っていた光輝神官であるジュークは、同じく共に旅をするようになったクリジェスを伴い用事で少し離れた場所へと出かけていた。
チャンスとばかりにマリーはホクホクでシモラーシャと残ったのであるが、結局ちょっかいを出しても、いつものようにていよくあしらわれたのだった。
すっかり不機嫌になったマリーはとっとと寝てしまったのだが、夜中にふっと目が覚めたのだった。愛する人のうめき声で。
「シモラーシャ……」
彼の目に、顔だけをマントから出した彼女の顔が月に照らされて映った。
苦しげに歪められたキリリとした眉毛。
彼女の清冽としたブルーアイを閉ざしている瞼の端から涙が流れ落ちる。
そして、今度はハッキリと聞こえたこの言葉。
「何で死んじゃったの」
グサリとマリーの心に突き刺さるその言葉。
確かに、彼女の親を無残にも殺したのは自分ではない。
だが、今までに、幾度となく彼女をその手で亡き者にし、そのときに、彼女をかばった親がいたことは確かだった。
残酷で知られた音神であるところのマリスは、確かに彼マリーの中に存在しており、陽気で人当たりのよいキャラクターである彼に、時としてサディスティックな衝動へと駆らせてしまうこともある。
「僕はマリーであって、マリスではない」
せめて、人間でいる間だけは、残虐という性質から遠のいていたい。
そう、彼は思っていた。
だが、彼は気付いてもいた。
かつて、マリーではなく、別の人間として生きていたこともあった。
そして、そのときは、マリスとしての残虐性があまりにも顕著に現れすぎていたのだということ。
そのときはまだそれでもよいと、それが本来の自分なのだと、そう信じて疑いもしなかった。
だが───
「シモラーシャ、愛している」
マリーは、涙を流すシモラーシャの顔に己のそれを近づけ、そっと瞼に口付けをした。
「あ…」
彼女の瞼がピクリと動いた。
だが、目覚めない。
しかし、ほんの少しだけ眉毛の歪みがなくなったようである。
「愛している」
彼は額にはらりとかかった彼女の黄金色の髪をそっと払い、そのまま彼女の頭を優しく撫ぜた。
どうして、こんなにもこの人を愛しく思ってしまうのか。
どうして、あれほど憎んでいたこの人をこの手で抱きしめてしまいたいと思うのか。
一度だけこの身体を抱いたことがある。
今の彼女ではない、彼女の前世であったが。
しかし、あの時の交わりは、愛に基づいたものではなかった。
一方的なまでの暴力。
苦痛を伴う、愛のない行為。
「…………」
今度は、マリーの顔が歪む。
あのときのことは、さすがの自分でも思い出したくない───と彼は思う。
彼女に初めて男ができた。
それを知ったときのあの気持ちを、今ならなんというかわかっている。
嫉妬───
しかも、それをあの男は見抜いていたのだ。
思い出すと、はらわたが煮え繰り返る。
「だから、僕は絶対に許さない」
あの男、ギルガディオン・ガロス──ドラディオン・ガロスの先祖でもあり、ドーラは彼の生まれ変わりでもある。
「奴は言った。いつか、二度と愛さないことが真実の愛であると、僕が真実の愛を知ったときに知るだろうと」
マリーの琥珀色の瞳が一瞬銀色に燃えた。
「だが……」
あの男が言ったように、今ようやく真実の愛を知った───と、マリーは思う。
だが、あいつが言っていたように二度と愛さない愛ではない。
自分は、これからどんなことが起きようと、彼女を永劫に愛するだろうと、それだけの自信があった。
二度と愛さない?
そんなバカなことがあるか。
この命をかけてもいい。
彼女のためならこの命を差し出してでも、彼女を生かすだろう。
「それが、僕の真実の愛だ」
そのとき。
ふっと、彼の耳に何かが聞こえたような気がした。
それは遙か遠くの空の上か、はたまた地の底からか、風に乗って、あるいは地鳴りのように、彼の耳に届いた。
──それでいい、それでいいんだ───
「…………」
その風の囁きか、地のうなりか、よくわからなかったが、彼の耳にはかつて聞いたことある男の声のような気がした。
マリーは気付いていただろうか。
かつて、シモラーシャの前世であるシモン・ドルチェを火のように愛した男ギルガディオン・ガロスは、愛する女を苦しめたくなくて二度と愛さないと誓った。
それは、愛するがゆえに到達した究極の愛であり、それもまた真実の愛であったということ。
そして、マリーが愛して愛して、狂おしいまでに己の愛を注ぎ込みたいと願っているシモラーシャに対して、己の命さえも彼女のために捧げたいと願うその愛も、また真実の愛であるということに。
真実の愛とは、ひとつではないのだ。
一人一人の持つ愛こそが真実の愛。
それを真実と信じるその心が愛を永遠のものへと変える。
「うう…ん…」
見つめるシモラーシャの眠れる顔がまた歪む。
マリーは傍らに立てかけたフィドルをそっと手にした。
彼は居住まいを正すと、一呼吸置いて静かに奏で始めた。
凛とした空気の中、彼の奏でる音色はどこまでも流れていく。
月をもさらに冴え渡らせるほどの響き。
だが、それを夢の中で聴いているシモラーシャにとっては、おそらくこの上ない子守り歌に感じられたのだろう。
たちまちのうちに彼女の歪んだ表情は落ちつきを取り戻し、微笑みさえ浮かんできた。
「貴女は知らない」
彼は微かに囁いた。
それは注意していてもとても聞き取れるほどのものではなかった。
愛する人の夢に語りかけるかのように囁かれるその言葉。
「貴女が何者か。そして、この僕が何者か。いつか僕の正体が明らかになったとき、貴女はどう思うだろう。貴女はそれでも僕をその傍に置いてくれるだろうか」
彼はフィドルを奏でながら、すやすやと寝入る彼女の顔をむさぼるように見入った。
「貴女は許してくれるだろうか。貴女を殺し続け、非道な仕打ちをしてきたこの僕を。貴女を裏切り続け、真実を話せないこの僕を……」
「真実って?」
「!!」
思わずフィドルの弦を切ってしまうところだった。
それこそ、マリーは非常に驚いて、目を見張った。
「ねえ、話せない真実って何?」
マントにくるまりつつ、マリーを見上げるブルーアイ。
眠りから覚めたばかりのためか、ぼーっとした表情である。
見上げる瞳も妙に色っぽく潤んでいた。
(だ…抱きたい)
マリーは突き上げる欲求を感じた。
このような瞳で見つめられて、そういう気持ちにならない男がいたらお目にかかりたいくらいだと、そんな馬鹿な思いまで浮かんでくる。
「な…なあにを言ってるんですかあ?」
だが、慌ててその気持ちをぐっとこらえ、マリーはいつものように頭をかきつつヘラヘラと笑った。
「シモラーシャ、あなた、寝ぼけてるでしょう?」
「…………」
彼女の目が不機嫌そうに薄められた。
「マリー、あたしに、隠し事してるぅ」
ごそごそとマントから這い出てくるシモラーシャ。
(う……)
マリーは思わず目をそらした。
もちろん、彼女はいつもの格好であって、何も衣服を身に着けていないということではなかったが、いかんせん彼女の衣服といったら胸を少し隠しただけ、下も足がむき出しの水着スタイルであったので、まあ普通の女性の格好としてはあられもないものだと言われてもしかたないものだったのだが。
しかも、彼女の体つきは、健康な男性ならほっておけないほどのホディでもあるし。
そのナイスボディな彼女は、いつものような勝気な表情と口調でもなかったので、マリーとしても勝手が違っていて戸惑いを隠せなかった。
その上、その勝気なところをより一層勝気に見せている頭のてっぺんで結んだ髪を、今はほどいて長く垂らしており、月に輝く黄金の髪が絡みつくようにその魅力的な身体を豪華な宝石のように飾り付けている。
その姿で、その潤んだ瞳で、こんなふうに見つめられて、狼にならない男はいないだろう、そうだろう───と、マリーは強引に心で納得し、これはチャンスかもしれないと思った。
どうやら、彼女はまだ夢の中に半分いるらしい。
いつもなら絶対にこんな目で自分を見てくることはない。
この千載一遇を逃したら男じゃない。
「シモラーシャ」
マリーは熱っぽく愛する人の名前を呼んだ。
「真実を知りたい?」
「知りたーい」
「………」
小首を傾げる仕草があまりにもかわいい。
さらにマリーの欲望に火がついた。
「じゃあ……こっちにおいで」
彼は自分の声が震えているのを感じた。
そして、そのことに思わず苦笑した。
(この僕が震えるなんて……)
今までどれほどの人間と、あるいは人ではないものと、この身体を重ねてきた自分だろう。
そんな自分が、まるで初心な若造のように震えるなんて。
うまくいくかどうかを心配しているなんて。
そんな彼の心など知らず、無防備に擦り寄ってくるシモラーシャ。
ぐっと近くまで顔を近づけ、いまだ潤んだ瞳でマリーを熱く見つめる。
「こう?」
心臓が早鐘のように鳴っている──彼女の顔が、いつになく近くにあるから。
マリーはおずおずと両手で彼女の身体を包み込んだ。平手が飛んでくるのではないかと少しびくつきながら。
だが、予想に反してそういうことにはならなかった。
意外にも、彼女はマリーに身体を預け、彼の腕の中からマリーを見上げている。
今から愛の告白を受ける恋する女性のようだ───とマリーが思ってしまうほどの無防備さだった。
そして、マリーは確信した。
これで自分たちは初めて恋人同士として結ばれるのだ。
昔のあの凄惨な交わりではなく、本当に慈しみ大切に彼女を愛することができるのだと。
(僕の血塗られた過去が、これでやっと終わる───)
彼は目を閉じた。
どうしてか、瞼の裏が熱くなってくる。
そのとき。
彼の唇に、何か柔らかいものが押しつけられてきた。
はっとして目を開くと、シモラーシャが目を閉じ、マリーに自ら口付けてきていたのだ。
彼女は、彼の唇から自分のそれを離し、びっくりして何も言えなくなっているマリーに甘えるように言った。
「ねぇ、キスしたから教えて。真実って何? マリーは何を隠してるの?」
「ぼ…ぼく……は…」
突然のことに、彼は少しパニック状態に陥っていた。
頭の中が真っ白になり、自分はいったい彼女に何を言えばいいのかもわからない。
ただ、
「僕…は…あなたを愛しているんです……もう気が狂うほどに……愛しているんです」
この言葉しか言えなくなってしまった。
それを聞いたシモラーシャは不思議にも艶然とした微笑を浮かべ、
「あたしが…欲しい?」
彼女の唇が妙に赤くなった──ような気がしたマリーだった。
だが、そう思ったのも束の間、その言葉に彼は頷くしかできなかった。
それはもとよりのことだったのだが。
「いいわよ。あたしを抱いて」
「え……」
「でもお願い、優しくしてね、痛いのは嫌よ」
次の瞬間、マリーはもう待たなかった。
腕に抱いた愛する彼女の唇に自分の唇を再び重ねると、さらに強く抱きしめた。
「愛している、シモラーシャ、あなたを……」
「おまえって呼んで……」
激しくかき抱き、彼はますます熱情のまま浮かされたように言い続けた。
「愛している、愛している、ああ、おまえは僕のもの、誰にも渡さない……」
そうして、彼は彼女をその場に押し倒した。
狂おしいほどに求める。
与え、共有し、身体で喜びを感じる。
心は満たされ続ける。
甘くて切ない時間。
彼は感じた。
彼はやっと手に入れたと。
この愛を、この人を永遠に自分のものにと。
そして───迎える歓喜の極み。
眠る君の顔を見つめ、喜びに打ち震え、一人笑壷に入る僕。
幾度となく、僕の愛を受け入れ、僕の奔流をその身に浴び、僕の滾る想いに悦びを見せてくれた。
彼女の眩しい裸体は、先ほどまでの激情の跡である汗で美しく濡れ、嵐が過ぎ去ったはずのこの僕に、再び火を灯そうとしていた。
そんな彼女が寒そうに身を縮めた。
僕は情事の後の衣服をつけていない素肌のまま、彼女の裸体を抱きかかえ、自分のマントで彼女と自分を包み込んだ。
すでに東の空は白み始め、ほどなく朝陽が僕らを照らし出すだろう。
僕は幸福のまま、目を閉じた。
この次目覚めたとき、愛する彼女の瞳に真っ先に映るもの。
それが僕であるように。
僕は彼女のほてった身体を強く抱きしめ、いつか目覚める眠りへと入っていった。
「ねぇ、ジューク」
「はい、シモラーシャさん」
心配そうな表情で、彼女はマリーの顔を見やった。
彼女はマリーの頭を自分の膝にのせている。
「マリー、大丈夫かなあ?」
彼女はマリーの琥珀色の髪の頭をやさしく撫ぜた。
その様子を微笑ましく見つめていたジュークは、
「大丈夫ですよ、シモラーシャさん。素敵な夢を見ることができるように、私がおまじないをかけておきましたから」
「おまじない?」
「ええ、マリーさんにとって、一番望んでいる素敵な夢をね」
そう言って、ジュークは幸せそうに眠るマリーの顔を見た。
マリーが夜中にひどくうなされていると、シモラーシャが慌ててジュークに言いに来たのが、先ほどのこと。
ジュークとクリジェスは二人より少し離れた場所に寝ていたのだった。
彼は青ざめる彼女をなだめ、マリーの苦痛に歪む顔に手をかざした。
とたんに、マリーの表情は落ちつきを取り戻し、すやすやと寝息を立て始めたのだ。
「シモラーシャさん」
ジュークは、ほっと安心している彼女にこう切り出した。
「貴女は、この方が一番何を望んでいるかご承知なのでしょう?」
「…………」
彼女は答えない。
一見して見るだけでは、彼女がいった何を考えているのかはわからない。
「そして、私の思い違いでなければ、貴女もこの方のことを……」
「今はダメなの」
彼女はジュークの言おうとしたことをやんわりと、だが、強い意志を持ってさえぎった。
「今はダメなのよ、今は……」
「シモラーシャさん……」
彼女は優しくマリーの頭を撫でながら呟いた。
「この時が、いつまでも続くといい。あたしとマリーとこの時代が……いつまでも…一番あたしにとって幸せな時なのかもしれないこのときが───」
その喋り方は、まるで普段の彼女とは別人のようだった。
ジュークは一瞬、再び「光の乙女」が舞い戻ってきたのかと思ったが、そうではないと確信した。
そして、まさに愛する人を見つめるような眼差しの彼女と、微笑を浮かべて眠るマリーの、まるで一幅の絵画のような彼らから視線を外し、彼は天空にかかる月を見つめた。
(いつか、私も貴女のところに……)
彼の目に映るその人は、永遠に彼の瞳に焼き付いて離れない。
その夜は、彼にとっても過去の幸福な時を思い出す夜となったのであった。
月はそんな彼らを炯々と照らし出していた。
初出 2002年7月27日
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