第8話 現実から離れて日常をしたかった あとみかん

「おねえ、1時間」

 夢ではなかった。不思議と寝てしまった後悔はなかった。

「俺も1時間、おとう最後で」

 一人で母と起きているのは少し怖かったのでひとりづつ。

 もう一周交代でうとうとした(この妙な現実みたいなものは続くんだという安心感と、逆に続けなきゃとそわそわ感があったのだ、皆もきっと)。先ほどよりは短めに。

 父が鼾をかいている間に3人で朝食兼昼食の準備をする。

 サラダ。パン。卵。コーヒー。フルーツ。ヨーグルト。

 後悔や罪悪感が生まれるかと思ったが

 睡眠って必要だな、と素直に思った。

 それでも寝不足の妙なテンションで弟は

 皆で掃除しようぜ!と言い出し鏡や窓を磨いたりなどした

 現実から離れて日常をしたかったのだと、思う。

 父は角までとても丁寧に磨いた。

 母の服や本棚、趣味のあれこれの整理は途中で気がかりだったが

 母はただいつもの家事をしたがった。

「冷蔵庫、もっといろいろいれておけばいろいろつくっておいてあげられたのにねえ」

 それでも何品か作ってタッパーに入れていく。

 ほうれん草のおひたし。大根と人参とごぼうと鶏肉の煮物。ポテトサラダ。

 卵は全部ゆで卵になった。残った野菜たちは普通のサラダと温野菜のサラダにと分けられた。たいして料理ができない母はVRになったからと言って変わらない。冷蔵庫の中の加工されていない食品は飲み物と調味料のほかは殆どなくなった。

「タッパーのは明日とか、明後日にね」

 夜は昨日の残りのカレー。片付けの時、弟は食器を昨日よりしまうのが上手い。


 そして今は36時間が始まったばかりのような作業にまた戻っていた。

 年賀状を広げてお葬式には誰よぶリストの確認だ。

 テーブルの上、確かあの辺に私のスマホあったな、ちらりと目をやる。

「うん、これはもういいか」

 そのあたりに父は年賀状を乱雑に重ねる。

「あ、それ嘉夕ちゃん?夕くんの子供の?でかくなったな」

 遠くの写真付き年賀状に手を伸ばそうとした弟の袖がテーブルの上を滑り

 そのあたりの山が少し高くなる。

 でもみんなの意識がそのあたりに集中している。だから。


 そして聞きなれない音楽が聞こえる。そのあたりから。年賀状の山の中から。


『♪〜♬お別れまで残すところ1時間となりました。素敵なお引継ぎ、できていますか?

 心残りのないようお時間をお過ごしくださいませ。

 次は10分前にお知らせいたします♪〜♬』

「ふッ」

 弟が席を立った。椅子がガガッと大きな音を立てた。

「いっつ、ぶつけた、小指」

 パタタッとスリッパをならし大げさにしゃがむ。

 顔は不自然に向こうを向いている。泣いているのだ。

 ずるい!先に泣くなんて!

 嘘つき!スリッパ履いてんじゃん!

 ずるい!ずるい!私が先に泣きたかった!

 でもそうしたらお母さんが!

「やあだ!写真!写真!」

 お母さんが慌てている。父がぼたぼたと嘉夕ちゃんの年賀写真の上に涙をこぼしていた。

 お父さんまで何なの!?私だって!私だって泣きたいよ!誰よりも泣きたいよ!

 腰を浮かしてシュッとテッシュを取る。目と鼻を押さえゴミ箱に投げると入りきらずに周りに散乱したテッシュの上に重なった。

 あれ?父よ、弟よ、すまん、ずるいとか思って。怒って。

 私はどうやら一番最初に…ずっと前から泣いていたようだ。


「コーヒー淹れましょうか?ね。さ、年賀状片づけて」

 私はもうそんなこといいから!とは言わなかった。

「…何か何も終わんなかったね」

 お葬式に呼ぶ人、片付け、棺に入れるもの、VRとともに行う生前整理のあれこれ。

 あれもしなきゃこれもしなきゃで気ばかり焦って中途半端に残っている。

「全部やったらちょっと寂しいし、全然やってなかったらかなり大変だし

 ちょうどいいのよ、きっと」

 お母さんはこんな悟ったようなことをいう人だったのか、まあ死んだら悟るのかもな。普通の主婦もこの程度には悟れるようになるのかもしれない。

 私は悟ってないけれどせめて素直に謝る姿を母の前で見せたい、というか逆に意図せずにするっと言葉が出ていた?どっちだろう、もうよく分からなかったけど。

「あとごめん。ほんとは36時間のうちにゆっこおばちゃんとかお友達とかにも会いたかったしょ?…ごめんなさい。」

 お母さんの会いたい人を呼んだら、私とお母さんの時間が少なくなる。だから聞かなかったし、言わなかった。私、自分勝手な嫌な奴。

「俺も誰も来ないといいなって思ってた。ごめん」

「家族でいるのがいいんだ、最後なんだから」

「…あらあら。いいわよそんなの。みんな気にしちゃって…」

 あとみかんもごめんなさい。言いたかったけど父と弟の前で言うのは恥ずかしい。

 なのに。

 母は私の頭をぽんぽんしてもう一度言った。

「いいわよ。そんなの」

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