義務にして使命
祖母が、倒れた。
「左半身は思うように動かないでしょう」
医師はごく冷静に、実務的にわたしたちに伝えた。
明け方、トイレの前で音がしたのでわたしが行ってみると、祖母が仰向けに倒れていた。
先般の発表会で見事なボヘミアン・ラプソディを披露するほど上半身の、特に両手は健全だった筈なんだけど、小さな梗塞が脳にいくつもできていたんだろう。今回倒れたことで、多分ピアノは思うように弾けなくなるだろう。
自分が弾けなくてもレッスンをすることは多分できるだろうけど、気持ち的に辛いに違いない。
祖母抜きの家族会議が開かれた。
わたし
「おばあちゃんはきっと家に居たいと思うよ? 大変かもしれないけど、在宅介護にしようよ。なんだったらわたしも地元の大学に行くよ」
父親
「すまない。東京での職が決まってしまったから・・・いずれにせよ、キミと嶺紗には迷惑をかける」
母親
「施設に入っていただきましょう」
平行線のまま祖母の入院期間のタイムリミットが迫る。
わたしはある看護師さんのアドバイスを思い出した。
それを父親と母親に話す。
「地域包括支援センターに行ってケアマネージャーさんに相談しようよ。きっといい知恵を出してくれるよ」
地域包括支援センターは市や町といった単位で設置される介護の駆け込み寺のような組織だ。病院との連携、介護認定の取得、介護サービスの紹介、バリアフリーへのリフォーム等、介護のあらゆることでケアマネさん中心に相談に乗ってくれる。
最初のミーティングを、祖母が入院する病院のロビーで、医師とケアマネさんを交えて開催した。
「どうしてわたしが・・・」
母親の本音だろう。
祖母は決して甘い姑ではなかった。自分がピアノ教室で稼いでいるという自負もあって、専業主婦の母親を責め立てることすらあった。
父親がこう言う。
「キミの親でもある訳だから・・・」
母親の反応が電撃の速さだった。
「あなたの親じゃないの! もし施設に入れないんなら、離婚させていただきます!」
「そんな事、言うなよ・・・」
母親は泣き出した。
「ねえ、わたしがお
「それは・・・」
「ないわよね!? そう言うのをね、こう言うのよ」
母親は家族以外がいることも構わず、いや、むしろ家族以外に聞かせるように声を上げた。
「卑怯者!」
パン、と音がした。
父親に平手で打たれ、その瞬間に目が死んだ母親。
「もういいわ」
すっ、とその場から立ち上がり、母親はロビーを出て行った。
「母さん!」
誰も反応しない中、追うのはわたしの使命だと強く感じた。
多分そうだろうと思った通り、母親は病院の屋上にいた。
決して乗り越えることのできない高さのフェンスが張り巡らされているので心配はしていなかった。
「嶺紗。わたしだって、わかってるのよ」
フェンスに寄りかかって母親は空を見上げる。
「結婚した時から、ちゃんと分かってる。わたしの義務だ、って」
「義務・・・」
「そう。扶養義務。ねえ、嶺紗」
「はい」
敬語で答える。
「今の時代、わたしみたいに姑に仕えるだけの嫁はね、評価されないのよ。現に嶺紗だって、ピアノが弾けるでしょう、弾けるようになりたかったでしょう」
「・・・はい」
「わたしは弾けないわ。ねえ、嶺紗」
「はい」
「嶺紗は料理が上手よね。それでピアノも弾ける。文章も上手。おまけに△△大学だって頑張れば行ける。でも、わたしは?」
言葉を出さずに慈しみの目で母親を見た。
「ねえ、わたしは? ただの専業主婦? わたしって、何なの?」
「か、母さんは立派だよ。おばあちゃんのお世話もして、わたしたちのご飯から何から・・・」
「じゃあ嶺紗。代わって」
「え?」
「大学行くのやめて、代わって? お
「う・・・ん。わかった。わたし、大学行くのやめて、おばあちゃんの介護するよ。家事も全部、頑張るよ」
言い終わるや否や、母親から、ぎゅうっ、と抱きしめられた。
「嶺紗、ごめんね! わたし、何言ってんだろう。あなたの母親なのに」
「母さん・・・」
「嶺紗。わたしだって人間だから。お
母親の腕に力が籠り、わたしの胸が母親の腕の中できゅん、と潰される。
「嶺紗の母親であることは義務じゃないから。わたしは嶺紗が大事で大事で堪らないから」
「母さん・・・」
わたしも、母さんへは、義務じゃないよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます