ネガティブにしてポジティブ

 父親は自己都合退職を前提に再就職活動を始めてしまった。


 ああ。

 どうすればいいんだろう?


「あなた。これから嶺紗れいさが大学受験だというのに・・・」

「本当にすまない。だが、もうこれ以上は私の精神がもたない。それに、もし今のまま仕事を続けたら私の人生は一体なんだったんだろうという恨みつらみで終わっていってしまうだろう」

「じゃあ、嶺紗の人生は? どうなるの?」


 母親と父親の繰り言のぶつけ合いのような会話。

 わたしも加わるべきなのだろうか。


「お義母かあさん、なんとか言ってくださいよ」


 母親は今度は祖母に怒りの矛先を向け始める。

 当然だろう。父親は祖母の息子なのだから。

 こんなことを言い出すのなら最初から産むなよ、とでも言いたげな強い語調だ。


 ところが、わたしの祖母は、やっぱり異次元だった。


「嶺紗ちゃんよ。ピアノで学費稼ぎな」

「え?」

「嶺紗ちゃんのピアノならいくらもお金をいただける。わたしはそういう風に仕込んだからね」


 大阪でのさきさんのライブを思い出した。

 もはやジャズバーの花形にしてドル箱だったさきさん。

 あるいは祖母がピアノ教室で小さな子たちや音楽教師を目指す青年期の子たちにレッスンをする風景も思い浮かべる。


 実際わたしは恵当けいとのレッスンで月謝を頂いている。


「嶺紗ちゃん、どうだろう? それにわたしのピアノ教室の収入もバカにできん金額だよ」


 ニヤリ、と祖母が笑う。


 こういう家でのやり取りをわたしは恵当に相談してみた。


「恵当。なんかさ、さきさんに『ウチの大学おいでよ』って言われたことがすごくリアルに思えてきて」

「嶺紗。小説は?」

「もちろん、書き続けるよ。ただ、おカネの面で言うと、多分ピアノの方が『仕事』としてのクオリティを提示できるんだろうと思う」

「僕との『恋愛小説』は?」

「・・・書きたい」

「・・・うん」

「ほんとはわたしだって書きたいよ。WEB小説コンテストに応募して、沙里ささとさんとさきさんがキャラとアニメと曲まで作ってくれたプロモのお陰でPVもぐっと伸びてきてるし。小説の世界で生きていきたい」


 いつもの図書館で閉館間際にロビーで語り合うこの瞬間。


 大切な、今日は特に大切なこのひとときに、やっぱりいつものようにサティのジムノペディが館内に静かに流れてきた。


 思わず涙がにじむ。


 どうしようもないへの漠然とした不安によって。


 わたしは小説家になれるのだろうか。

 お金を得て自活できるのだろうか。

 父親はどうなるのだろうか。

 母親と父親が離婚してしまわないだろうか。

 恵当との恋愛関係を続けることができるのだろうか。

 恵当とわたしは、たとえば結婚するなんてことがあるのだろうか。

 6歳上のわたしは恵当よりも早く老いて、先に死ぬのだろうか。


 本当にこのまま、容姿も朽ちて、徐々に崩れていって、そして、人生が終わってしまうのだろうか。


 父親が怖れるように。


 びっくりした。


 わたしの髪の上から、あたたかな熱が伝わってくる。


 恵当の手のひらだった。


 とっ、とわたしの頭頂部に置くようにしてそのまま体温でわたしの悲観する脳を慰めてくれている。

 思わず、恵当の胸に、そのままおでこを預けてしまう。


 ジムノペディが静かにリフレインしている。

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