『雨の日の彼女』

 降り止む気配の無い雨は、読みかけの長編小説の余白に似ている。何かが始まりそうな予感。期待と不安の狭間。心の中に灯る不思議な温もり。そんな感じだ。窓の向こう、雲が雲を覆い暗く沈んだ雨の日の空を、僕はじっと見つめている。

「雨の日って良いよね」

 突然、そんな声がして驚いて視線を動かすと、一つ前の席に見覚えのある少女が座っていて、僕と同じように教室の窓から外の空を眺めていたのだった。艶のある黒い髪をしていて、美しい瞳を持った少女だった。

「君、いつからそこにいたの?」

 僕は動揺していた。物思いに耽っていて、隣に誰かが座っていたのに全然気付かなかった。それも女の子だ。何故かは分からないけれど、顔が赤くなっているのを感じる。

「さっきから居たよ。授業が終わってから、ずっと」

 と、彼女は微笑んで言った。まるで当たり前のことを言うように。

 しかし、僕にはそれが当たり前の事とは思えなかった。そもそも、彼女は僕のクラスメイトではなかった。どこかで会ったことがあるような気がするけれど、よく思い出せない。恐らく、隣のクラスの生徒だろう。一体どうして、隣のクラスの生徒がわざわざ放課後この教室へやってきて、僕の隣で一緒に窓外の景色を眺めているのか、僕には見当がつかなかった。

「あっ」

 僕の疑問を置き去りにして、おもむろに彼女が何かに反応して声をあげた。その視線の先を見ると、二人の生徒が校庭の焼却炉に何かを運んでいるところだった。

「あの本、捨てちゃうんだね」と彼女のか細い声が鳴いた。まるで異国の戦地で、消えゆく命を嘆くかのように。

「学級文庫の入れ替えをやっているんだよ。古い本は捨てられて、もうすぐ新しい本が来るんだ」と僕は言った。その事について僕はクラス委員だからよく知っていた。今、机の上に開かれている読みかけの本も、もうすぐ処分される本の一つだった。最後にもう一度読みたくて、授業後、帰らずに僕は読書をしていたのだった。

「そうなんだ」 寂しげに言った彼女は、ゆっくり身体の向きを僕の方へと変える。


「ねえ、その本好き?」と彼女が聞く。「うん、好きだよ」と僕は特に迷うでもなく返事をする。すると彼女は嬉しそうに微笑んで「良かった」と言った。


 ちょうどその時、「おい、雨もあがったし外で遊ぼうぜ」と廊下から友人の声がした。同じ部活動に所属している友人だった。外を見るといつのまにか雨はあがっていて、空には初夏の蒼天にうっすらと虹がかかっていた。

 ふと気が付くと、ついさっまでいた彼女はもうそこには居なかった。僕は慌てて辺りを見渡したけれど、やはり何処にも居ない。このわずかな一瞬のうちに、彼女はどこへ行ってしまったのだろう。

 僕は机の上に開かれたままの本に目をやった。それは、もうすぐ焼却処分されてしまう本の一つだった。青春小説で、美しい瞳をした黒い髪の少女が出てくる物語。

 僕ははっとして窓の外を見た。「あの本、捨てちゃうんだね」と言っていた彼女の声が頭の中でリフレインする。もしかして彼女は……。

「おい、何かあったのか」と不思議そうに友人が近付いてくる。

 僕は慌てて「いや、なんでも無いよ」と言って平静を装い、「そうだな、外行こう」と立ち上がった。

 本を閉じ、少し考えた後で、僕は思い切ってそれを自分の鞄の中へ入れた。学級文庫の外への持ち出しは禁止されている。当然、持ち帰ることは許されていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、この本はどうせ処分されてしまう本なのだ。僕が盗んでも誰も困りはしないだろう。

 僕は友人の後を追って教室を出て行きながら、また彼女に会えると良いなと思った。


――ねえ、その本好き?

――うん、好きだよ。

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