7月24日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで山本薩夫監督の「真空地帯」を観る。
広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで山本薩夫監督の「真空地帯」を観る。
1952年(昭和27年) 新星映画 128分 白黒 35mm
監督:山本薩夫
脚色:山形雄策
原作:野間宏
撮影:前田實
美術:川島泰三、平川透徹
音楽:団伊玖磨
録音:空閑昌敏
照明:伊藤一男
出演:木村功、神田隆、加藤嘉、岡田英次、沼田曜一、西村晃一、佐野浅夫、沼崎勳、下元勉、高原駿雄、野々村潔、薄田研二、利根はる恵
毎年この時期になると戦争や原爆に関する映画が上映されるとおり、「宮本武蔵」の終了した映像文化ライブラリーは昨日から戦時中の暗部を映している。
先日の映画の質の高さを維持するように、今日も観て損などない映画らしい映画だった。現今の日本映画をまったく観ていないから意見は眉唾物だが、昔の日本は本当に水準の高い作品が多い。木村功さんが主演する今日の作品も観る者に日常を忘れさせる単に愉快な内容ではなく、歴史観点にドキュメンタリー性を含みながら、各登場人物の性格と背景を細かに配置して、軍隊がいかなる機構かを肉厚に描いている。
前半から細かいカットが連続されて、物語を追うよりもこの作品の主題となる軍人教育の断片を垣間見せている。関西弁が主体に話される口汚い言葉は恐ろしいほど人間味があり、どことなく呆けた面をみせる幹部連に対して、青年達は学年によって年功序列が厳格に分かれており、軍紀を絶対に張り手が何度も繰り返される。偉そうに喋り、罵声を飛ばし、背筋を伸ばして吠えては敬礼する。その光景はまぎれもない軍隊の内情となっており、この風紀が日本全土に伝播して“非国民”なる言葉を生み出す国民国家全体の戦争へ向かっていたのだと、暑苦しい根元は一種の畜生のようにぎらぎらしている。
森と木の関係のようなこの映画は全体像と個々が緻密に描き出されているので、固定して登場人物を語る作りにはなっていない。いくぶん群像に近い演出になっているが、主人公は木村さんとなっており、主役として今まで観てきた俳優像とは異なる面を見られるかと思っていたが、女に恋する優男の顔があり、冤罪のような形で刑務所送りになっていたが、その事実はまるで無実とは言えない実相が存在しており、利己的な性格の描き方は断定を許さない矮小さも潜んでいた。
軍隊の生活には派閥もあり、大学生らの知識階級の兵もいれば、豪快に仲間で歌う初等教育だけのやくざな面々もいて、軍隊の規範の中でそれぞれの人間性は消されるからこそ、やたら威張る獣よりもはるかに性質の悪い本性がにくい面を見せている。
今の世の中ではもうこのような映画は二度と生み出せないだろう。怒鳴る声ひとつにしても、戦時を実際に体験してきた生命力のある俳優が演じているので、どれも本物の激があり、動作にしても偽物の兵隊ではない。だからこそ舞台セットやロケーションは何ひとつ作り物を感じさせず、張り手にしてもプロレスと同じ威力を持ち、時に空振りするが、時に思い切りぶっ叩いている。
マックス・ウェーバーの本が若年兵の枕から見つかった時に、上官はこの本が社会主義の本か判断できていなかった。本の名前に“社会”と漢字で書かれているだけで、社会主義の本を読んでいると憤慨して張り手をするのだから、軍がいかなる頭を持って動いていたか見せてもらえる。
軍隊は人間性を失わせるところだと描いているが、結局どう描いても失われない人間性が現れることになる。賄賂、虚偽、無知、傲慢、怯懦、などなど、信実なる目や、快活な細い目などもあるが、ルールという権力に威を借りた中でどれだけ自分に人間があるか考えさせられる。社会的地位、職業、家族関係、友人の有無など、時と場合にそれらの条件が自分自身をどのように飾りたてるか、またそれらが剥げるか通用しない場所でいったいどれだけの自分を見せられるか。しょせん人間は、それら肩書という環境をまとってこそ社会的な存在だと考えさせられる作品だった。
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