4月24日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでイングマール・ベルイマン監督の「ファニーとアレクサンデル」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーでイングマール・ベルイマン監督の「ファニーとアレクサンデル」を観る。


1982年 スウェーデン、フランス、西ドイツ 311分 カラー Blu-ray 日本語字幕


監督・脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スベン・ニクビスト

美術:アンナ・アスプ

衣装:マリク・ボス

編集:シルビア・インゲマーション

音楽:ダニエル・ベル

出演:バッティル・ギューヴェ、ペルニラ・アルヴィーン、エヴァ・フレーリング、アラン・エドワール、ヤン・マルムシェー、グン・ヴォールグレーン、エルランド・ヨセフソン、マッツ・ベルイマン、スティーナ・エクブラッド、ボリエ・アールステット、クリスティーナ・ショリン、ヤール・キューレ、モナ・マルム、ペルニラ・アウグスト、ハンス・ヘンリック・レールフェルト、アリアンヌ・アミノフ、カースティン・ティーデリウス、ハリエット・アンデルセン、アンジェリカ・ウォールグレン、リンダ・クリューガー、ペニッラ・ヴァールグレーン、マジリス・グランランド、スベア・ホルスト


今日の映画作品は今月のプログラムで確認してから、覚悟していた。フレデリック・ワイズマン監督の上映会でもやたら時間の長い作品があってそれらはことごとく回避していたが、今日はドキュメンタリーではない巨匠の集大成と呼ばれる映画なので見逃すわけにはいかなかった。


二日酔いに滅多にない昼前の起床となり、天気の良さを逃すのが惜しい気持ちのまま、髭も剃らず髪の毛もセットせずに映像文化ライブラリーへ行った。今日の予定はこれだけで、外食もせず、自分の休日は「ファニーとアレクサンデル」だけに捧げられた。


約5時間半に休憩は一度だけというハードな観賞状況となっていたので、自分の中では長距離バスの移動という位置づけで臨んでいた。プロローグとエピローグに挟まれる5部に分かれた映画構造は、この物語の主となる劇場経営をするエクダール一家の貴族らしい贅の極みが初めに置かれていて、夜の晩餐と朝方までの時間経過を描くだけで1時間半が経過する。昼下がりの眠たい時間にこの演出はなかなか過酷で、衣装と内装の驚異的な視覚効果の中で豪勢に尽きる料理の数が盛られていて、円卓で食事を囲む家族と使用人の賑やかさは登場人物の役割をつかませない。作品名となっている二人の子供についつい意識をあてて映画の展開されていくことを期待してしまうが、家族の中での男女関係がわりと長回しのカメラも使われながら喋々と映されていて、現代のハリウッド映画のようなテンポを予期すれば、あまりの長ったらしさにフラストレーションは溜まることだろう。


上映時間の長さだからこそ許される悠長な描き方は、のちのちになって意味が気づかされる。ただしこの作品は細かい要素が複雑に絡み合い、発展して見事な調和を見せて前半の内容を振り返らされるよりも、この物語が演劇を基本としているのだと理解させられる。一晩を越すのに1時間半もかけるという現在の娯楽メディアの尺からは考えられない構造は、演劇家族だからこその演技そのものの面白さが連続されていて、映画らしい発展を目線に置けばそれらを逃してしまう。生の舞台でもあるように軽薄ではない真摯な文学作品らしい演劇は、だからこその退屈と一体になった我慢を強いる一面があり、たやすく物語を運ばずに何でもないように見えるやりとりをじっくり描き出すところに、演技の旨味があるだろう。


子供達に妙味のある演技を見せて暖かい雰囲気を演出していた父が亡くなると、一家は陰を落としていく。ハムレットの亡霊役を稽古している最中に体調が悪くなり、そのまま死んでいくあたりからこの物語における「ハムレット」の寓意は感じられるが、亡骸の前でおぞましい悲鳴を何度も繰り返していた未亡人が再婚すると、息子のアレクサンデルとハムレットの関係にアレゴリーが宿るようで、実際に幽霊として父親も登場するのでジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」のような古典の現代的解釈の手法が含まれていると考えてしまう。


2時間半を過ぎて休憩が挟まれると、物語はヤン・マルムシェーさんが演じる素晴らしく嫌な登場人物であるエドヴァルド・ヴェルゲルスが大きく顔を現して、嘘と真実、現実と空想、芸術と宗教という対比を持った構造が平行して描かれていることに感づかされる。とはいえ映画の構造や主題など考えなくても、コスチュームとセットは極端にこだわり抜かれているので、判別のつかない家財類に壁の隙間を埋めるように飾られた絵画など、耽美と豪壮の驕奢は有無を言わせない存在を発揮しており、主教が住まう質素で物の少ない家の雰囲気の対比は、むしろ物質がないからこそコンクリートなどを好んで使うアーバンなお洒落があるようだ。


3時間を超えれば主要な人物によって物語が進められ、画面の編集も緊迫した展開をみせ、短くないカメラ回しによる実に演劇らしい見事なワンショットも含ませつつ、光や構図など映画らしい技法のカメラワークもあり、省くという映像表現だからこその切り方で説明を想像させる。さらに脚本としての巧みさと同時に人物造形の輪郭が豊かさを増していき、登場から嫌悪すべき人物だと臭わせていたエドヴァルド・ヴェルゲルスがむち打ちなどの過激な行為を見せる頃になると、スメルジャコフを連想するほど悪役としての魅力が映画を盛り立てていく。主教として立派な地位にあることがうなずけるように、弁論は理路が通り、人間的な同情が見あたらず、冷淡だからこそ妻に対しての執拗な愛と独占欲が不可解ながら理解できるだけでなく、自分の子供でないアレクサンデルとファニーに対して義務とも愛情ともとれるサディスティックな所有欲が異常ながらわかるようで、単に児童虐待ではない敵対心と常軌を逸した本質的な価値観の戦いをみるようだった。


ラストに近づくと登場シーンは多くないが、それぞれの人物が鏡のように位置関係を映しつつ役割を果たし、物語は理想的な展開で収束していく。4時間も過ぎれば座ることに慣れてしまい、30分という尺度が普段観る映画のそれとはもはや異なってくるから人間の感覚は不思議なものだ。腹は減るが眠気は覚めて、冗長な台詞のシーンでも焦ることなく悠々と観ていられる。


終わってみればロシア的な時代に流された一家の盛衰よりも、結局元に戻る好ましい解決となっており、映画冒頭の文句にあったように、悩むよりも笑う方が良いという、刹那を愛するイタリアらしい南国の太陽を感じる物語となっていた。忍耐を要する決して生易しい作品ではないが、映画でも演劇でも、それらを愛する者を刺激してやまない要素がありとあらゆる箇所に詰め込まれており、衣装、小道具、人物、脚本、台詞などなど、映画でありながら演劇であり、虚構だからこその大胆な想像力が盛り込まれた大作となっていた。


映画の最後にストリンドベリの戯曲から台詞が抜粋されるように、嘘だろうと本当だろうと、実際だろうとそうでなかろうと、結局人間は自分の世界の中で存在し、すべてを含めた想像力のままにいるのだから、それらをすべて肯定して生きようという力強いメッセージを感じる作品となっている。それを愛と言ってしまえば誤解を生むかもしれないが、幸福な時は遠慮なく幸福を楽しもうという劇中の言葉もあるように、何もかも許して味わうという喜劇の構えが大いに腕を広げて見せてくれるような、まさに偽りとしての真価が存分に紙吹雪の感動の中で降らせてくれる映画となっていた。

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