3月21日(日) 広島市中区袋町にある旧日本銀行広島支店で「なにもないへや」を観る。

広島市中区袋町にある旧日本銀行広島支店で「なにもないへや」を観る。


振付・演出:新庄恵依


ギャラリーGのサイトで知って予約をしたダンスパフォーマンスを観に行った。


旧日本銀行広島支店1階の作業スペースに一脚の椅子があり、そこに座って近い距離のパフォーマンスを観るのだが、始まる前に新庄恵依さんから自分の家についてのインタビューがあり、会話と動作で自分の持っている部屋のイメージを伝えていき、その伝達した家の内部を舞台に身体表現が行われる。


インスタレーションらしい空間と時間の隔離は、撮影スタッフや窓口から観る人がいるにしても、鑑賞は唯一の自分だけのものとなる。短い時間の会話で自分が持っている細かい家のイメージは当然伝えられず、玄関、入って見える物、部屋の位置、中に配置されている調度品、隣の部屋、壁、窓などを伝えていくのだが、そもそも初めの質問である自分の家の定義が問われることになる。広島で借りている部屋は頭に浮かばず、今もある実家を伝えたのだが、そのイメージはもうこの世から去ったじいさんとばあさんの生活の場所が主となり、何度も入ったことのないむしろ未知の空間ともいえる部屋は、家は継がれていくのを示すように今では両親の生活領域となっている。


自分はじいさんばあさんの部屋という土台を持ちながら、両親が片づけて配置した物のイメージを伝えており、それを新庄さんは能楽師よりも緩やかな亡霊のようなリズムでひっそりと進入していく。横顔のはっきりした顔立ちは細い手足をおもむろに動かして、表情を変えず目だけは存在の証拠を強く写しながら、座ったり、眺めたり、何かを飲んだりする。それはもちろん想像された世界であって、自分の知っている偏屈なじいさんと物を捨てられないお節介なばあさんは、とてもそんな真似はしないだろう。そう思った瞬間こそ間違いであり、両足を流して上品に座ったり、両手で優しく器を支えて飲んだりはしないが、同じ行為をしただろうと考えられた。あぐらをかいたり、ずぅぅずぅぅ音を鳴らして汁椀からすすったり、想いと感度は異なれど、部屋における動作は疑いなく同じ幻影があったはずだ。


短い時間ながら記憶と現在を他人に託し、描いてもらう。それは唯一の鑑賞者以外には感受できない普遍の動作だとしても、家についての概念を瞬間にこぼして、それをすくって再構築された動きへの洞察は、様々なイメージを想起させる。


「じいさんばあさん元気かな」ふとそう思っても、もう死んだ二人はこの世におらず、墓参りもろくにいかない自分は家族の結びつきがそれほど強くなく、むしろ希薄ではあっても、家を訊かれれば自分の生みの親の親を思い出している。感傷的などならず、ただ時間の経過を感じては、この世において家という単語は自分にとって最も存在の有無があり、思い出と儚さで移ろう生の印として晩年が連想させられる。それはあまりにも心苦しいほど懐かしく、大切にしたい概念だからだろう。

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