3月21日(日) 広島市中区袋町にある旧日本銀行広島支店で「ひろしまの家」を観る。

広島市中区袋町にある旧日本銀行広島支店で「ひろしまの家」を観る。


振付・演出:新庄恵依

音響:前村晴奈

照明:平曜

衣装:田島由深

撮影:浅野堅一


広島ではあまりないダンスパフォーマンスが一日に充実した今日は、ダンスダンスダンスで、一時間半前に観た新庄さんの別作品「ひろしまの家」を観た。


この作品は個人の記憶の伝達から生まれた「なにもないへや」の断片と2018年に初演したという「ひろしまの家」を複合した表現となっているらしく、まだ二時間も経過しない前に観た動きがより長い時間の中で描かれていた。


おそらく観衆の多くが部屋を提供した人々だろうから、それぞれが思い思いに作品と接するプライベートとパブリックの合一にもなっているだろう。ただ「なにもないへや」のような対峙の関係性は観る人の数多によって失われているので、ある程度鑑賞者の緊張は和らいでおり、表現に対してのむやみなイメージの張り付けは幾分緩和されている。


ただテンポとリズムは同一のものとなっているので、ゆるやかな動きは自分の見ていない動作が連続されており、これは誰かの庭だろうか、ベッドか布団だろうか、明かり取りだろうか、クローゼットだろうか、洋服掛けだろうか、などなど自分にはなかった動きから部屋と記憶を想像した。それだけ動きのパターンが増えたので、自分から生まれた15分の動きと異なるドキッとするポーズもあり、その中にダンスとしての紛れもない美しさを観ることになった。能楽師のようなスローな動きの運びにダンサーの土台ともいえる足の裏がのぞけて、土踏まずのくっきりした筋のたくましさはとても綺麗で、そんな足が起きあがる時に地面に擦れると、一般人が決してしない舞踏としての動きは親指をペン先として地面に線を刻む。その動きはそれぞれの部屋とは異なる純然たる肉体運動の甘美としてあり、新庄さんはそれほど上背があるわけではないが、舞台としての錯覚で身長は判別できず、足同様に細く綺麗な手は窓や些細な小物などに向かってなだらかに伸びる。ある人にとっては何もないパントマイムに見えるかもしれないが、喚起された部屋に入る動きそのものは、やはり幽体や霊魂などを感じさせる拍動があり、呼吸そのものは魂としてやはり眼力に存在するものの、物的な狩衣を脱いだ動きはただ現前させる物象の証としての動作ではなく、動きそのものに宿る意志の精髄としての霊体に昇華されているようで、実際音楽のない肉体のリズムはとある人にとっては何物でもないかもしれないが、静かな世界の中でこれほど眠気を覚まして注意を向かわせる表現力は不思議なものだ。


特に原爆に関する記憶の証言らしい「ひろしまの家」の音声が流れてから、内容に合わせた動きか疑っていると、ふと自分の部屋で生まれたフレーズとしての動きが現れて、疑問は一度に答えが出て、他人の中に自分だけのプライベートが強烈に呼び覚まされると、実体のない記憶の複合から生まれた動きの存在に慈しみさえ覚えるほどで、「ばあさんがまた飲んでいるよ」、「じいさんがまた畳に座って外を眺めているよ」、などと新庄さんの動きとは異なる声かけが存在の意味する行動とは性別関係なくあてはまり、記憶はめざましく呼び起こされた。


アフタートークでこのダンスパフォーマンスの意図や考え方などを聞いていると、感想としては似ていてもまるで異なる実感をそれぞれ持っているのだと思い至った。コンセプチュアルやコンテンポラリーをかければそれぞれ言葉を多く生み出してこのダンスを解説したり解剖することもできるほど興味深い内容となっていて、記憶の複合と決して解け合わない決然とした印象も感じたが、やはりダンスは体あってのものだと、新庄さんの肉体の動きに目を奪われる作品となっていた。

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