1月16日(土) 広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「七人の侍」を観る。

広島市中区基町にある広島市映像文化ライブラリーで黒澤明監督の「七人の侍」を観る。


1954年(昭和29年) 東宝 206分 白黒 35mm


監督:黒澤明

脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄

撮影:中井朝一

編集:岩下広一

音楽:早坂文雄

美術:松山崇

録音:矢野口文雄

照明:森茂

出演:三船敏郎、志村喬、木村功、加東大介、宮口精二、稲葉義男、千秋実、津島恵子、土屋嘉男、藤原釜足、高堂国典、土屋嘉男、小杉義男、左卜全


午後の代休を取ってまで観に来たのはこの作品をスクリーンで確かめたかったからだ。8年近く前に大きくないパソコン画面の鑑賞でも戦闘シーンに身震いはしたが、前半の侍集めには退屈し、三船さん演じる菊千代の登場には違和感ばかり覚え、志村さん演じる島田勘兵衛になんら味を覚えず、木村さん演じる岡本勝四郎の甘ったるさに嫌気がさし、宮口さん演じる久蔵に親近感が湧いたくらいだった。


ネームバリューで、やはり凄い作品だと思いはしたものの、実際にはなんら見えていなかったという実感もあり、今回の再見でどれほど目がなかったかと気づくこととなった。


まず素晴らしいと思ったのは、百姓を主題に扱った大衆の寓意性を表現したところだろう。弱くも強い集団を象徴する人間性が随所に描かれていて、野武士の襲来に対して侍に助けを求めるが、落ち武者を襲って裏では武具を得ていたり、腹を空かせた侍なら使い物になるだろうくらいの策謀のせいか、色々と手助けしてもらい戦闘も大詰めになる直前になって隠れていた酒と食べ物が現れたりと、いくら奥に潜めているのかと不気味になるあたりは、表と裏によって存在する狡知と愚昧の矛盾する共存が表れている。


正と負のような相反する二面性と一纏めにできない多面性があってこそ成り立っているのは、百姓だけでなく当然侍にもいえることで、村人達の謬見を示すように父親が興奮して助っ人の侍が来る前に娘の長い髪を無理に切って男のような格好にさせるのだが、それが正しくも効果はなかったと後々知ることになり、手助けに来ながら結果的に偏見としての侍の一面をみせることになる。ただそこに若い男女のういういしい馴れ初めがあり、娘が傷物にされたという父親の見解はもっともではあるが、決戦前の情事に対してのそれぞれの視点はいくつもあり、なだめようとする七郎次のセリフや、島田勘兵衛が次の日に見過ごして冗談に済ませるあたりにも毒にも薬にもなる世知が巧みに描かれ、ここでも表向きと裏向きが百姓と侍の境だけでなく、仲間内にもあることが表される。


戦闘シーンの激しさがまず目立つ作品だとしても、3時間を超える尺の中で常に中心にあるのは人間性を柱としたヒューマニズムへの問いかけであり、描かれるのは一般市民から政治家にまで適応される世相の混濁そのものであって、綺麗汚いを含めた社会の中での正義感へのオマージュを自分は感じてしまう。それは「醉いどれ天使」や「赤ひげ」にも長く手を伸ばしている黒澤明監督の持つ逞しく偉大な特性であり、手塚治虫さんにも似た視点の大きさと慈しみをやはり感じるのは、政治家よりもはるかに不条理で苦悩がつきまとう医者の精神を何よりも発見することができるからだろう。


違和感だった三船さんはその破壊力に感心し、勿体ぶった志村さんは腰の座った深い慈愛であって、甘ったるさもまた良いものだと木村さんの軽さを受け入れ、良い役回りで最後まで生き残った加東さんを新たに見つけ、似た顔の稲葉さんと千秋さんのやられる悲しさは思い出し、宮口さんの寡黙で優しく周囲に心が開けてきたところで討たれる泥と雨はクライマックスとして前回同様今回も瞬間が歪むほど変貌して画面に表れていた。


たやすくない主題を短くない上映時間に長いと思わせない編集と構成で詰め込む技量が卓越している。最も有名な映画作品として知られているが、その理由は眉唾物では決してなかった。

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