1月4日(月) 広島市中区十日市町にある自宅でジェームズレッドフィールド「聖なる予言」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅でジェームズ・レッドフィールドの「聖なる予言」を読む。


エゴン・シーレでつながる関係があって、マーラーやプルーストのように特別な好みは同じ嗜好者同士を結びつける。ただしその数はまわりに少なく、その世界に行けば大勢いるのだろうが、プルーストで話せる人は未だかつて会ったことがない。それに近い希少だと思っていたエゴン・シーレをわざわざ観にウィーンまで行き、レオポルドミュージアムでの孤独な小話をおかしく聞かせてくれた人がいる。自分に非常に似ていると思った。


その人の薦めてくれたのが「聖なる予言」で、正月に時間がとれたら読もうと数ヶ月前から用意してあった。自分の用事もひとまず済んだので、集中して読書した。


感想文を書く癖でこの本を読めば、文学としての価値は自分の好みには合わず、人物造形は仏作って魂入れずという字面だけの意味の肉厚のなさが気になり、ストーリー展開もこの物語の第一の知恵である偶然の一致がすべて言い訳をしてしまう流れとなっていて、会話文の組み合わせや場面の情景描写も単調というか、旨味のある工夫が足りない。


それはおかしいことではない。これを書いたジェームズ・レッドフィールドは小説家を目指して小説を書いたわけではないから、細かい技巧的な、もしくは文芸としての味わいは薄くて当然だ。それよりも、体系的な精神世界についての思想がこの本の神髄だろう。


二十代の前半に自己啓発本を読む時期があり、一人アジアを旅行している最中にパウロ・コエーリョの「アルケミスト 夢を旅した少年」を読んで心の底まで影響を受けたことがあった。前兆、偶然の一致、生命のエネルギーなど、カルロス・カスタネダの「時の輪―古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索」にも連関するスピリチュアルな物語は、新しい教えよりも、再確認として日常の目線を一新するようだった。


衝撃的な価値観の発見よりも、やや退屈に読みながら終えたあとの感想は、あの人はどうしてこの本を薦めてくれたのかという疑問だった。文学よりも実用書としてのこれは、他人との関係に無関心で、ひどく狭い世界にいる自分に対してのメッセージとなっている。


とても簡単なことで、「ほらぁ、もっと他人と向き合いなさいよ、おもしろいわよ」ということだ。おかげさまで、これを薦めてくれた人と寺町に酔った夜あたりから、人付き合いの扉は開けている。


今年一年はより実体験を。進むべき道の発展を、より示してくれた本となった。

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