12月1日(火) 広島市南区段原にある日本料理店「悠然 いしおか」で飲んで食べる。

広島市南区段原にある日本料理店「悠然 いしおか」で飲んで食べる。


広島の食の世界は噂が広く多く、「悠然 いしおか」さんもやはり目立った話を聞いていた。


先入観を抱いて訪れると、最近は少しばかり外食に慣れたにしても、白壁と格子木に干し柿の釣る店構えからこちらも身構えてしまい、カウンターに案内されれば背筋を伸ばして話題にも気をつかってしまう。そんな時こそ崩れた事を述べてしまうが、スマホに相手を奪われることなく、入店直後の憚りで上田宗箇流の講話を目にしたように、そこで説かれるごとく瞬間瞬間をおろそかにすることなく食事を楽しむことができた。


寒い夜ではあるが日高見の冷酒で乾杯すると、香りと切れのよさに純米酒の腰が口を爽やかにする。それが緑の春菊と紫の菊花を一緒にワタリガニの冷たさは呼応して、複雑ながら清澄な和音のようなジュレと鮮烈な生姜も合わさり、涼しさから食事が始まる。


続いてエビの真薯に原木しいたけの椀は、控えめなすり身となって白さが一定している。葉物らしいかつお菜の新鮮な味わいに、魚介類のような肉厚のしいたけが歯をつかみ、澄んで深い出汁が心をほっとさせる。


刺身は鯛で、薄切りの淡泊な味わいにワタリガニの内子が乗っかり、臭みなく突き通る濃い味はわさびもうまく取り込み、優れて調和した組み合わせに声を少しに、口は動いて秒単位の彩りと移ろいに止まる。


酒は玉櫻の殿になり、藁で燻された鰆がみずみずしい葉と共に出される。皮目の塩味と香ばしさが鮮明な一面として存在を持ち、脂を持った身は中心に向かって繊細な火が通り、そのグラデーションの美しさはそれぞれ辛みや苦みなど複雑で豊かな野菜に酢が加わり、互いに互いを引き立てる。


白磁の蓋を開けると目にも喜ばしいとろみがわさびの香りを立ちのぼらせて、一品目に口にしたジュレ同様にとろみは雨露が地に垂れて、すっと染み込むように溶けていく。その柔らかさはあまりに自然で、ふわふわしたすり身も西洋の泡とは異なる口どけとなり、だからこそ内にいる鯛の身の量感が愉快になる。


素焼きの鮮やかな葉と太刀魚は秋に落ち着いたようで、細かくほぐれる旨味たっぷりのこの魚に骨はなく、色々な葉を常温発酵させたという端にたたずむカニ味噌色の調味料を塗れば、酸味ある味わいに身がしまるようだ。油で光るような翡翠の銀杏もすっと味が通り、干した骨は枯れる前の滋味深さの食感が染みる。


酒は古酒ながら柔らかく淀みなく広がる辨天娘にかわり、秋の根菜がカラスミの散らされた皿に重なって出される。見るからに滋養がつきそうな根菜達は、時候というタイミングに選ばれて油に引き出され、甘み、辛み、旨み、苦みなど、熱に活性化されてところどころに植物の根となる味わいがつまっているが、どれもぼやけたところは一切なく、里芋、小松菜、野沢菜など、やわでないこれらの野菜は噛みごたえがあり、強さと大きさが瞬間に切り取られて清々しい土の記憶が開かれると、ふと、「ホームラン食堂」さんで感じた空気と時間が思い出された。


美味しい料理が欲深くさせるので、締めのごはんの前に山廃の白影泉と玉川をいただかせてもらう。共に強烈な味をもって放散するが、それぞれの色合いは異なり、まるで一騎当千の武将を並べているような雰囲気で、濃く、味は強いが、そこに華やかさと艶やかさが備わって、原哲夫さんの「花の慶次 -雲のかなたに-」のような粋な世界が快哉を叫んでいる。


締めはモクズガニの炊き込みごはんで、ここで二つの酒が威力を発揮する。食べられるというので殻ごと身を噛みつくと、米に吸われてもなお強烈に生き残る肉が分厚く、殻もまるで気にならずにばりばりと歯に砕け、ここに酒を合わせるのは酒飲みにとっての至上の喜びだろう。黃、白、緑と三種の香の物はそれぞれ食感も味わいも幅広く、焼き麩ととろみを持った味噌汁も深くも臭くならず、ごはんも同様に濃淡を持ちながら冴えた味が通り抜けている。


温度の異なる柿にミルクが隠れ、秋の熟しを口に入れて綺麗に食事は終わる。


土壁に年季の入った絵付けの皿だけでなく、料理そのものに寂を感じてしまう。それは古さではなく、伝統への敬慕と現代の調和としてあり、「どじょうや」さんの野菜達への語りには愛情が溢れ、自分が先入観として抱いていたよくわからない印象よりもはるかに誠実な人柄が伝わってきた。聞けば遠く海を隔てた土地に住まう人とつながりがあり、店に来る前にそれがわかり、山伏という生き方で知り合ったというから縁は不思議だ。今日の料理や店の雰囲気においても、思想というのか視点というのか、その人生観が染み入るように伝わり、木訥ではないが知性を持った素朴として信念の強さを表立って誇張することなく、誤魔化すことのない細微なこだわりが当然の一徹としている。


山伏から日本文化に話がわたれば、その考え方に道が通じているという。最近その単語を自分も使ったが、ふと頭に浮かんだのがフェデリコ・フェリーニの唯一観たことのある「道」で、あれはとても悲しいだけでは言い表せない、人と人の縁が浮世に消えるようで色濃く残る、この上ない嘆きの果てだったと思い返される。


対価という言葉はあるが、ただ美味しい食事に金を使ってその夜を満足するのではなく、芸術作品としての食から人を知り、多くの感化を受けるという行為は、学び以外の他にない。壁にしても器にしても、そこへ意識を向ける神経には他にいないその人が宿り、音楽の好みなどにも派生して思わぬ共通点が発見される。


意外なつながりを見つけて店へ来たが、それが納得される今夜の食事だった。第一印象が晩秋となり、いつまでもその記憶と根と葉の味は残り、今後も色々な季節で想いを発見するだろうと、心温まる夜となった。

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