11月19日(木) 広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・中ホールで「下鴨車窓 演劇作品『散乱マリン』」を観る。

広島市中区加古町にあるJMSアステールプラザ・中ホールで「下鴨車窓 演劇作品『散乱マリン』」を観る。


脚本・演出:田辺剛

舞台監督:山中秀一

美術:川上明子

照明:葛西健一

音響:森永恭代

美術助手:下野優希

演出助手:松藤未夏

出演:北川啓太、福井菜月、澤村喜一郎、岡田菜見、西村貴治、西マサト、坂井初音、F.ジャパン


昨年アステール・プラザの戯曲講座で教えを受けた田辺さんの舞台を観に行った。戯曲への理解を深める初級のクラスではあったものの、小説とは異なる台詞の持つ役割や、書き手個人に縛られがちな視点の切り替えなどを学べた。


しかし、戯曲を書く上での知識や経験とは別に、先生の作る作品がどのようなものであるかも重要であって、そこに説得力がないからといって教えは半減するものではないが、心持ちとしては良作であって欲しい。生徒が先生を品定めするのは差し出がましいが、作品と観客の立場にそこは考慮されないので、やたら持ち上げるよりも、むしろ立ち向かうような構えがないわけではない。


などと難しいことはあまり考えずに、目の前の舞台をただ観ることはほとんど変わらなかったが、小道具の使い方や人物の登場タイミングなど、教えてもらったことがいかに作品に練り込まれているかは着目するところだった。


横長の平面舞台には自転車が積み重なり、チラシのデザイン同様の形象が造形されていて、劇が始まるまで長々と滝のような水量が流れ続ける。照明が暗くなるのに合わせての音量の増加の後に、糸の切れるような休止と点灯は、出だしから舞台世界に引き込む効果が強くあった。


登場人物の発声は腹からよりも喉のあたりを感じさせる軽さがあり、音量は海坊主のような人物以外は昭和のような胆力は乏しく、だからこそこの作品の持つ時代の位置づけが知れるようだった。


間はわりと長く使われるところがあり、冒頭の人物の固定にしても驚きが意識を占めて呆然としていて、どのような場面にあるかが直に感じられるところだった。


ところがどのような物語にあるかは明確に提示されない。自転車の紛失と発見はわかるが、言葉の辻褄が合わず、挙動不審な動きと説明には信用させるよりも偽る面があまりにも表れていて、誤魔化すつもりがわざとらしいほど造形されている。


骨組みのしっかりした物語の登場人物よりも、社会に存在する典型的な人物の要素が組み合わさって固定化された戯画としての性格が強く、分解された自転車を取り戻す側と、ばらばらの部品からインスタレーション作品を組み立てる側との対立は、見える対象がそれぞれカラスと野犬というところで、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」のような寓意の境界線は鏡以上にはっきりしている。


劇が進行して互いに見る世界は異なっていることがわかっても、親しい男女間のずれや、同じチーム内での食い違いが提示されて、共同体の中にある細かな対立が描かれる。それでも発起人としての存在を中心の核として、将棋の駒のごとく部品を取り合う作業は期限に向かって進んでいく。それはまるで賽の河原のようで、積み重ねても崩され、集めても取り返される物質の循環そのもので、個体化された現象の接合と離反という世界の創世そのものを魚眼の混じった広角レンズで観るようでもあった。


不条理劇などという知っているようで知らない言葉の枠にはめたくなるこの作品は、前半に安部公房のような社会の権利とそこに埋没する個人の希薄など、存在そのものを疑う作風を感じつつも、物が投げられたり、柏手で一斉に動物が走ったり、ベルを鳴らしながら飛び過ぎたり、狙いを定めるハンターのように息を押さえつつ体全身に発進の為の緊張を溜めるなど、動静のリズムが様々に変化するなかに起伏はあるのだが不可解な言動を常に探るような姿勢を観客に強いる効果があるので、平坦に作業しながら何気ない言葉を取り交わす光景を目の当たりにしていると、真偽を見定めるよりもそのままをわからずに飲み込むように監視する気分にもなってくる。


舞台の左右に広く奥深い空間があるようで、エコーする声は相手に聞き入れられず、どこまでも閑散とこだまして消えていくようだ。魂の叫びは発することに意味があるようで、相手には常に届かず、各々の一方通行が無数に交差するようだ。


アフタートークには「HIROSHIMA HAPPY NEW EAR」シリーズで司会する柿木さんが登場して、田辺さんと話を交わすのだが、長くない時間の劇の後とはいえ、やや空腹と神経の疲労を感じる中で、哲学的な頭脳を触媒とする柿木さんの言葉は滔々と意識が流れ続けていた。本人があとあと“ノイズ”が混じるような話しと言うとおり、つかみ所があるようでどこに手を出してよいかわからない作品のあとで、大統領選挙の対話や言葉の定義の違いなど、震災後とコロナ渦の社会も含められて、まさに思想が散乱とするようであり、“符丁”などの単語も出されれば、先ほどの劇を根元により複雑に八方へ展開されるようで、劇同様に言葉の配列が生む規則的な意味よりも、離散する各話題のその奥にある頭脳の鬱勃こそが、現代アート作品同様にまず感じてから考えるべきだと対応させられた。


柿木さんに比べると、この劇の作と演出を手がけた田辺さんは話す内容にまとまりがあり、作り手としての意識を持ちながら他者の見解を飲み込んで抽出する形となっていた。


数日前に観た演劇のアフタートークに比べると、およそ正反対と思われる形となっており、その時の作品に比べるならば、古典的な形式を引き継ぐロマン派の構造よりも、今日の劇は近現代音楽らしい茫洋とした意識や、現状に対しての懐疑などの考察が必要となり、作品そのものから受ける効果も理論を抜いた人間本来の情緒よりも、位置や時の配列をずらしてまず困惑を引き起こすような、やはり多くの言葉で持って解されるコンセプチュアルな作品に近いのだろう。


それでも基本は演劇としての言語があり、場と時を与えられた身体表現として感受するのは変わらず、表情や仕草だけでなく声音や抑揚に照明の効果もポーズに加え、キャスティングの妙もある。それは中盤に能楽師らしい動きで登場して、メフィストフェレス的な手引きの役割を引き受けた悪魔でもない象徴的な人間による強烈なインパクトだろう。太いピエロのように、面白くも恐ろしいというなんとも不気味な存在がスキンヘッドの下に毛皮を着ていた。


柿木さんが最後に語っていたのは、哲学という学問において答えはないが、答えを求める学生がいることだった。その時に自分はこの作品の主題は何かを考えていて、それは一種の答え探しになるのかもしれない。もちろん答えの存在しないことは知っていても、家に帰って考える為の答え合わせとして疑問に思っていたので、帰り際に田辺さんに尋ねたところ、やはり一言で述べられないほど種種の要素が含まれている、ような事をこぼしていた。


印象としては、マンボウが産卵しているらしいので、その稚魚を釣るためにたっぷり寓意のコマセを散らしてサビキ釣りをしていたら、様々な自転車の部品を釣り上げてしまい、それらを仕掛けから取って積み重ねたら、散乱マリンの造物ができあがってしまった。ということは、この海底にはそれだけ物に関わった人達の記憶と経験が眠っているのだろうか。そんな風に連想してしまうほど、意味深長に思える要素が分散していて、隠喩もメタファーも言葉を間違えるほど、じっと考え続ける劇となり、この感想はその集積として、やはり整理に欠けるものとなってしまうのだろう。柿木さんの言う、知った気で喋ると嘘らしくなる、これも自分の聞き違いかもしれないが、常に文章を書くことは偽りの盛り合わせと自覚している身としては、なるべく味のある、そしてむやみに人を傷つけない言葉でもって偽物を吐き出そうと、語ることこそ演劇に必要な対話だという田辺さんの言葉を笠に着て、やはり気ままに文章を書き流してしまった沈思を要する舞台作品だった。

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