8月29日(土) 広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「太宰治の『新釈諸国噺』」を読む。

広島市中区十日市町にある自宅で新潮名作選百年の文学から「太宰治の『新釈諸国噺』」を読む。


自分も「人間失格」で己を見つけた気になった口の一人なので、この作家は個人的な思い入れがあり、いともたやすく若者を取り込む作風がファッションのように感じて遠ざける時もあったが、「右大臣実朝」の捉えどころのない描き方に改めてこの作家の資質を感じて、好感を取り戻したことがあった。


約六ページのこの作品にも太宰治らしい特徴が表れており、森鴎外を見本とするような古典文学からの材料に、それらしい言葉遣いと品格を持った文体がリズムよく流れているが、道化的な諧謔が細かいところに挟み込まれていて、この軽い調子に他人をなめくさったような臭いがあり、どうも信用できない不純な感じもしないことはなく、また、世間一般の人が寄りつきやすい足がかりともなっているのだろう。


川に落とした銭を、それより高い金を払って他人に探してもらうこの物語は、西鶴から着想を得たと説明があり、滑稽なまでに真面目な人の行動が取り扱われていて、それを嫌みたらしく曲げて汚すのではなく、作者の好感を保ったまま描いていき、そこに利口な人物が登場して道理に適うが効率悪くてかなわない作業をうまく丸め込むのだが、自分なんかはずるして誤魔化すのが苦手ではないので、昔の金銭の価値はわからないが、たかが十一文を川に落としたことに時間と労力の費やすことを厭って、落とした銭ではなく、懐にある別の銭を用意して容赦してもらうこと方策に同感は向かうだろう。


この作品を読んで感じるのは、偽善的なほど内面と外面をさらす印象のあるこの作家の二面性がよく表れていて、真面目な人物にはそれが正しいと疑いのない賛同が含まれており、小細工をしてその場を取り繕った人物にも同等の性質への愛着があり、どちらにも偏らず、結局双方の銭が見事な経過をたどって戻ることに落ち着くのは、葬儀場で悪気なく笑いがつい出てしまう誠実な人柄を想起させる。不真面目なのではなく、あまりに真面目な感性があるからこそ自身を汚し、痛めつけたくなるようで、誠実への憧れがあるよりも、それを持っているからこそ生きる上でどうしても汚れをまとわずにはいられないことが耐えられず、わざわざどぶに足を突っ込んで歩くような真似をするように思える。いわば、とても不器用な人物であり、だからこそ、コンプレックスを多く抱えていることをあまり隠さず、またそれを茶化すような言葉もつとに出てしまうのだろう。


“岸に着いて馬より降り、河原の上に大あぐらをかき、火打袋の口を明けて、ざらざらと残金を膝の間にぶちまけ、背中を丸くして、ひいふうみい、と小声で言つて数へはじめた。二十六文残つてゐた。うむ、さすれば川へ落としたのは、十一文にきはまつた、惜しい、いかにも、惜しい、十一文といへども国土の重宝、もしもこのまま捨て置かば、かの十一文はいたづらに川底に朽ちるばかりだ、もつたいなし、おそるべし、とてもこのままここを立ち去るわけにはいかぬいかぬ、たとへ地を裂き、地軸を破り、龍宮までも是非にたづねて取返さん、とひどい決意を固めてしまつた。”というリズムカルな調子にカリカチュアを感じるのは、歌舞伎をつい思い浮かべてしまう日本の伝統芸能らしい息遣いがあるからだろう。


“ やがて集つて来た人足どもに青砥は下知して、まづ河原に火を焚かせ、それから人足ひとりひとりに松明を持たせ冷たい水にはひらせて銭十一文の捜査をはじめさせた。松明の光に映えて秋の流れは夜の錦と見え、人の足手は、しがらみとなつて瀬々を立ち切るといふ壮観であつた。それ、そこだ、いや、もつと右、いや、いや、もつと左、つつこめ、などと声をからして青砥は下知するものの、暗さは暗し、落した場所もどこであつたか青砥自身にさへ心細い有様で、たとへ地を裂き、地軸を破り、龍宮までもと青砥ひとりは足ずりしてあせつてゐても、人足たちの指先には一文の銭も当らず、川風寒く皮膚を刺して、人足すべて凍え死なんばかりに苦しみ、やうやうあちこちから不平の呟き声が起つて来た。何の因果で、このやうな難儀に遭ふか、と水底をさぐりながら、めそめそ泣き出す人足まで出て来たのである。”という堂々たる描写であっても、最後の箇所に軟弱なイメージをつけるから、やはりこの作家らしい個性があるように感じられる。


“「さいぜん汝の青砥をだました自慢話を聞き、胸くそが悪くなり酒を飲む気もしなくなつた。浅田、お前はひどい男だ。つねからお前の悧巧ぶつた馬面が癪にさはつてゐたのだが、これほど、ふざけた奴とは知らなかつた。程度があるぞ、馬鹿野郎。青砥のせつかくの高潔な志も、お前の無智な小細工で、泥棒に追銭みたいなばからしい事になつてしまつた。人をたぶらかすのは、泥棒よりもなほ悪い事だ。恥かしくないか。天命のほどもおそろしい。世の中を、そんなになめると、いまにとんでもない事になるにきまつてゐるのだ。おれはもう、お前たちとの附合ひはごめんかうむる。けふよりのちは赤の他人と思つていただきたい。おれは、これから親孝行をするんだ。笑つちやいけねえ。おれは、こんな世の中のあさましい実相を見ると、なぜだか、ふつと親孝行をしたくなつて来るのだ。これまでも、ちよいちよいそんな事はあつたが、もうもう、けふといふけふは、あいそが尽きた。さつぱりと足を洗つて、親孝行をするんだ。人間は、親に孝行しなければ犬畜生と同じわけのものになるんだ。笑つちやいけねえ。父上、母上、けふまでの不孝の罪はゆるして下さい。”などは物語の流れの中で作家本人の自意識がでかい顔して表れてしまったという、構成からすると妙な違和感を覚えるところだ。


“詐術はかならず露顕するもののやうである。さすがの浅田も九文落したのに十一文拾つた事に就いて、どうにも弁明の仕様が無かつた。青砥は烈火の如く怒り、お上をいつはる不届者め、八つ裂きにも致したいところなれども、川に落した九分の銭の行末も気がかりゆゑ、まづあれをお前ひとりで十年でも二十年でも一生かかつて捜し出せ、ふたたびあさはかの猿智慧を用ゐ、腹掛けなどから銭を取出す事のないやうに、丸裸になつて捜し出せ、銭九分のこらず捜し出すまでは雨の日も風の日も一日も休む事なく河原におもむき、下役人の監視のもとに川床を残りくまなく掘り返せ、と万雷一時に落ちるが如き大声で言ひ渡した。真面目な人が怒ると、こはいものである。”なんかは人柄がよくよく表れた妙味ある裁きなのだが、やはり後の一文がどうも余計に感じてしまう。そんなのはわざわざ書くこともないのに、あえてあるからこそ、やたら滑稽というか、軽い調子が出てしまうのだろう。


一度はこの作家に引っかかる小説好きの人も多くいる通り、文章はうまく、運びのなかでさすがと思わせる言葉を置くセンスもありながら、どこか抜けた点もあるから憎めない。好き嫌いが分かれると聞いたことはあるが、気取りながらもうまく恰好がつかない所もあるのが人間臭くて、やはり嫌いになれないものだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る